中国で行われている生体臓器移植ビジネス。無実の受刑者から臓器を奪い取る政府の魔の手は、法輪功修煉者にも及びました。中国分析のベテランジャーナリストであるイーサン・ガットマン氏は、修煉者への取材によって「臓器狩り」が組織的に拡大してきた事実を掴んだという。大きなリスクを負ってまで、なぜ中国政府は臓器狩りを行っているのだろうか。
法輪功修煉者から聞いた強制労働所での身体検査
2006年、法輪功修煉者からの臓器収奪疑惑が最初に明るみになった際、国家と法輪功との葛藤は中国問題のトップにあると私は確信しました。これに関する包括的な説明は長いあいだ出てこなかったのですが、強制労働所での残虐行為をすでに知っていたので、臓器狩りを否定する余地はなかったのです。
しかし、事実として受け入れることはできたはずでしたが、2007年に1人の生存者を面接するまでは、私も厚い“懐疑心”の上着に身を包んでいたのです。
強制労働所から出てきたばかりの年配の女性でした。特に明解な語り手ではなかったが、善良な性格に惹かれました。そして、彼女から話を聞いていると、“おかしな”身体検査がありました。本人は重要なこととは思っておらず別の話をしようとしたので、私はもう少し説明してくれないかと頼んだのです。
「ハンガーストライキはしていたのか?」「いいえ」
「ほかに検査された者は?」「法輪功修煉者数名」
「身体検査の内容は?」
彼女の説明は恐ろしく、そして不可解でした。通常の身体検査というより、生きた体から一部を選り抜いているようだった。本人はこれらの意味することにまったく気づいていない。枝葉末節にこだわる私からの質問にいらついているようだった。精神的な苦闘という大きな森林の話をしているのだ。
高齢の彼女が臓器狩りの対象として検討されたとは思わないが、身体検査のあとで若い女性数名が消えたという言葉が彼女の口から出たとき、“懐疑心”という私の身を守ってきた上着が一瞬脱げ落ち、馴染みのない悪寒が背筋を走った。
私はこのような証拠を好む。自分の腕で感じ取れる証拠を。できる限り目撃者の証言を中心に調査を進める。これらの証言者が、臓器狩りを取り巻く山積した証拠を、さらに意義深く積み上げていくことを望んでいる。
また、無実の受刑者からの臓器狩りは、法輪功修煉者から始まったわけではない。処刑に伴う臓器狩りが、組織的に進展してきたことを証言者は裏付けている。大量規模で無実の受刑者から臓器を搾取するという中央政府の決断は、実は大きな決断ではなく、法的な境界線を技術的に“ぼかす”だけの、些細なことに過ぎなかったのかもしれない。
「なぜ」に対する複雑に絡み合う答えを求めて・・・
しかし、意味するところはまったく“些細”ではない。私の推定では、なんの罪も犯していない数万人の人々が、中国の法規のもと、手術台で「殺処分」されている。なぜ、中国共産党はこれほど野蛮なリスクをとるのだろうか?
中国共産党は、資源も権力も手中に収め、国際的な賞賛を集めることに力を入れているのではないだろうか? 私の問題追究は、“どうやって”臓器狩りが起こったのかではなく、“なぜ”臓器狩りが行われているのか、にある。
臓器狩りの規模が大きくなった背景に、大量の法輪功修煉者の拘束があることに議論の余地はない。裏付けをとることは比較的単純な作業だ。いわゆる善悪を基準とした懲罰という図式を却下して、人間が行動を起こす動機は極めて複雑になる。
“なぜ”に対する複雑に絡み合う答えを求めて、4つの大陸に渡り100人以上の証言者と深く面接調査していった。証言者は私を信頼してくれた。自分の身の安全、そしてほとんどの証言者には、自分よりもっと大切な家族の安全と安寧が関わる。私が誤った方向に行くのではないかと懸念を受けた時期もあった。しかし彼らは、私が祈り求めていた光輝く西洋の騎士ではないことを理解したうえで、証言に協力してくれた。
こうして貴重な断片が埋められていった。ロゼッタストーンの原型を知るものはない。逮捕から残虐な遺体処分に至るまでの全工程を語れる証言者がいたら、私は信用しない。「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」という禅語のように、すべてを把握している者はスパイだ。
人間には落ち度があるが、その属性として信頼がある。信頼は研究室では製造できない。限界があり、偏見を抱き、失敗するがために、人間を単純に再生することは難しい。これまで多くの人間と出逢ったが、中国で強制労働所を経た難民は、多くの痛みを抱え、期待を抱き、困窮していた。彼ら以上に苦悩する者を私は知らない。
12月初旬の夜更け、ロンドン北部のアパートに一人で座りながら、中国からの難民たちの息づかいを感じる。やっとここまで辿り着いたが、これまでの犠牲者の苦闘を考えれば、実に些細な努力に過ぎない。中国全土に及ぶ、愛する者を失った家族のことを思えば、まったく不十分である。
現代中国史のこのおぞましい一幕について、すべてに十分な答えを見出すことはできない。しかし、7年間の試行錯誤を経て、この問題を提起する適切な視点をようやく見出したと思う。
※本記事は、イーサン・ガットマン:著/鶴田(ウェレル)ゆかり:訳『臓器収奪――消える人々』(ワニ・プラス:刊)より一部を抜粋編集したものです。