日本にとっての中国とロシアは、それぞれ大国として脅威を感じる存在なので、世論では中露関係の決別に期待する意見も少なくない。良好に見える中露関係だが、今後その関係が変化する可能性はあるのだろうか? ロシアの軍事研究の第一人者・小泉悠氏が、中露国境地帯にある街・ハバロフスクから中国に対する姿勢を探ります。
※本記事は、2019年6月に刊行された小泉 悠:著『「帝国」ロシアの地政学——「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。
国境では中国のモニュメントが輝く
日本において「中国の脅威」が語られるとき、その意味合いは一様ではない。
それは近代以来、常に「東洋一」であり続けてきた日本の立場が失われることへの恐怖や苛立ちであったり、中国の権威主義的な統治体制や、その拡散に対する警戒感であったり、あるいは日米と中国のあいだにおける軍事バランスが崩れることに対する懸念であったりするが、いずれにしても、中国と日本の関係は競争的なものとしてイメージされることが多いように思われる。
翻って、ロシアはどうか。中国への警戒感を募らせる日本の世論にとって、「ロシアが対中警戒感(あるいは脅威認識)を抱いている」という話題はそれなりにウケがよい。ロシアは中国の「人口圧力」すなわち大量に押し寄せる中国移民を警戒している、中国はロシアの軍事技術を違法コピーしている、ロシアは中国の中央アジア進出や北極進出を快く思っていない――といった話は、日本でしばしば語られるところである。
これらはいずれも事実ではある。だが、それは日本が期待するような中露決別をもたらし、ロシアが日米とともに中国封じ込めに加わるようなインパクトを持った問題なのだろうか。
2019年1月、私はロシア極東の街ハバロフスクを訪れた。19世紀半ばにロシア帝国が極東進出の拠点としてアムール川沿いに築いた街であり、その名は17世紀に極東を探検したロシアの探検家エロフェイ・ハバーロフにちなむ。
現在も極東連邦管区の全権代表事務所が置かれており、「極東の首都」と呼ばれるほか、東部軍管区司令部を擁する軍都でもある。それだけに街並みは想像していたよりもずっと立派だったが、その前に訪れたリガやタリンと比べると、いかめしい印象も強かった。通りやレストランでも制服姿の軍人が目立つ。
ハバロフスクはまた、国境の街でもある。私が泊まったホテルのすぐ裏ではアムール川が流れ、中洲の向こうは中国だという。
さすがに市内から中国側は見えないが、車で少し南下したカザケヴィチェヴォ村まで行ってみると、川岸から中国の沿岸を望むことができた。国境警備隊の監視タワーがあるのが国境の街らしいが、さらによく見ると川向こうに金属色を放つ奇妙なオブジェのようなものが認められた。漢字の「東」の形をしている。
この辺りは、アムール川とウスリー川の合流地点であり、その部分が角のように東に突き出している。したがって、中国の最も東の地点ということで、このようなモニュメントが建てられたようだ。
他方、対岸のロシア側は至って地味である。カザケヴィチェヴォ村は極東に進出してきたコサックの砦に端を発するという村落で、あまり目立った産業がある様子はない。川岸にはロシアの国境を示す赤と緑の塚が立っており、ロシアの国章である双頭のワシが刻まれているが、それがなければただの寒村というところであろう。
村に通じる道には国境警備隊の検問所が設けられており、地元の住民か許可を得た人間(我々は現地総領事館の尽力により事前に許可を得ていた)しか通れないという。巨大な「東」のモニュメントが輝く中国側と比べると、いかにも寂しい雰囲気は否めなかった。
厳密に言えば、「東」のモニュメントがあるのは中国の本土ではなく、アムール川とウスリー川に挟まれた中州、大ウスリー島(中国名: 黑ヘイシャーズ瞎子島)に建てられている。かつて中ソ国境紛争の舞台となり、2004年の中露国境協定によって、その西部が中国に引き渡されたという歴史を持つ島だ。
だが、橋を渡って島に上陸してみると、恐ろしく何もない。白茶けた土地が延々と続き、放棄された農場がところどころに目につくぐらいで、経済活動どころか人間の姿さえ見当たらない。冷戦後の中露国境交渉でロシア側(特にハバロフスク市)があれほど固執した島だとは思われなかった。