ロシアとウクライナの戦争が続いているが、日本とロシアもそれぞれ駐在する外交官を国外追放するなど、以前よりも緊張感は高まっている。日本は北方領土について何度も交渉を行ってきたが、ロシアは頑として主権を渡そうとしない。北方領土にはどのようなメリットがあるのだろうか? ロシアの軍事研究の第一人者・小泉悠氏が、北方領土の軍事的重要性について解説します。

※本記事は、2019年6月に刊行された小泉 悠:著『「帝国」ロシアの地政学——「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

オホーツク海は弾道ミサイル原潜のパトロール海域

ロシア軍東部軍管区は、陸軍第68軍団(司令部:サハリン)の隷下に第18機関銃砲兵師団を擁し、同師団を北方領土に展開させている。第18機関銃砲兵師団の司令部および主力は、択捉島の瀬石温泉(ロシア名ガリャーチエ・クリュチー)に置かれ、このほかに国後島にも1個連隊を基幹とする部隊が駐留する。冷戦期には色丹島にも1個連隊が設置されていたが、ソ連崩壊後に撤退した。

▲ロシアの戦闘機Su-27 出典:長門 / PIXTA

これらの北方領土駐留部隊は、北方領土を構成する島々自体を防衛する任務を負っていることはもちろんながら、より広範な軍事戦略上の意義を有してもいる。すなわち、北方領土を含めたクリル諸島(北方領土と千島列島を併せたロシア側の地理的概念)の内側に広がるオホーツク海の防衛である。

オホーツク海は、カムチャッカ半島に配備された弾道ミサイル原潜(SSBN)のパトロール海域とされており、北極海をパトロール海域とする北方艦隊のSSBN部隊と並んで、ロシアの核抑止力(特に第二撃能力)を担う。

ロシア海軍を構成する他の艦隊(バルト艦隊、黒海艦隊、カスピ小艦隊)にはSSBNは配備されていないことから、太平洋艦隊の戦略的意義は極めて高いのである。この意味では、北方領土駐留ロシア軍は島そのものを防衛するだけではなく、これを通じてオホーツク海全体を防衛する任務を帯びていると考えることができよう。

実際、第二次世界大戦において北方領土を占領したソ連軍は、1950年代に戦闘機部隊を除く大部分の兵力を一度撤退させている。ソ連軍が北方領土に地上部隊を再配備したのは1978年のことであるが、このタイミングはカムチャッカ半島にSSBNが配備されたのとほぼ同時期であり、核戦略とのリンケージは明らかであろう。

これは、ソ連海軍司令官を長く務めたセルゲイ・ゴルシコフ提督の「防護戦闘遂行地域(ZRBD)」構想を反映したものであり、今日でいう接近阻止・領域拒否(A2/AD)アセットで防護されたエリアの内部にSSBNを遊弋(ゆうよく)させておくことで、有事に第二撃能力を確保することを意図していたとされる。

ZRBDはオホーツク海と北極海に設定され、冷戦期の米国は、これらをソ連海軍の「要塞(バスチョン)」と呼んだ。他方、軍事評論家のアレクサンドル・ゴーリツは、このような「要塞」戦略が正式に採用されたのはソ連崩壊後の1992年であるとしており、この主張が正しければ「要塞」戦略は冷戦後に具体化したことになる。

「核要塞」のコンセプトが、どの時点で採用されたものであるにせよ、ソ連崩壊後のロシアが見舞われた深刻な財政難は、このようなコンセプトを実現する能力を著しく制約した。クリル諸島に配備された兵力の大部分や太平洋艦隊のSSBN部隊は、長らく装備更新されることなく老朽化するに任されたうえ、北方領土では反乱・犯罪・食糧不足など、士気および規律の低下を窺わせるニュースが報じられている。

▲地図:満腹商店 / PIXTA

また、プーチン大統領は、2003年に軍部からカムチャッカ半島の原潜基地閉鎖を打診されたことを、2012年の国防政策論文で明らかにしており、オホーツク海の「核要塞」は放棄寸前の状況であったと言えよう。

しかし、2000年代後半以降、こうした状況には変化が生じ始める。2007年にスタートした「2015年までの国家軍備プログラム(GVP-2015)」や、その後継計画として策定された「2020年までの国家軍備プログラム(GVP-2020)」、「2027年までの国家軍備プログラム(GVP-2027)」によって、ロシア軍の装備近代化は大きく進展し始め、北方艦隊および太平洋艦隊では新型の955型(ボレイ級)SSBNの配備が開始された。

これに加えて、2014年以降には対米関係の悪化によって、核抑止力の意義が従来以上に高まり、これら新型SSBNを防衛するために、北極およびオホーツク海の「核要塞」の再構築が重点課題となっていった。

軍事専門家のなかには、財政悪化を理由にSSBN戦力の縮小を提案する声もあるが、実際にはSSBN戦力はむしろ強化される傾向にある。北方領土における軍事力近代化も、(純軍事的には)これら核抑止力を防護するA2/ADアセット増強の一環として位置付けることができよう。