ソ連の脅威と向き合い続けた「臆病軍人」

岡部 ユダヤ人難民救出とともに、樋口季一郎の功績として忘れてはいけないのが、北海道をソ連の侵攻から守ったことです。

1945年8月、当時の北海道、南樺太と千島列島の「北の守り」を担当する札幌の第五方面軍司令官を樋口中将が務めていました。ポツダム宣言受諾後、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に侵攻してきたソ連軍に対する自衛戦争を指揮し、北海道がソ連に占領されるのを防ぎました(※)。

しかも、それは大本営からの停戦命令を無視して、独断で行った戦いです。陸軍大学校卒業後、参謀本部のロシア課で陸軍随一の対露情報士官として活躍し、ソ連の手口を知り尽くしていたからこその英断だと思います。学校の歴史の授業ではまったく習うことがない話なので、多くの日本人が知らないのが残念なのですが……。

※占守島の戦い:1945年8月18日未明、大挙上陸して来たソ連軍に対して、占守島守備隊が自衛のためにおこなった戦い。守備隊は大小80門以上の火砲と戦車85輌をソ連軍が上陸する波打ち際に集め、濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を集中砲火し、戦死傷者3000人以上という大打撃を与えた。この戦いは、満州・樺太を含めた対ソ連戦では、日本軍最大の勝利となった。

樋口 祖父は、戦後の歴史家が日本軍の負けた話ばかりを強調していることに怒っていましたね。「ちゃんと勝っていたところもあるんだぞ」って。やっぱり、そういう話は孫にはするんですよ。それがずっと僕の脳裏に残っていたこともあって「おじいちゃんの恨みを晴らすために頑張ろう」と思い、祖父が書き留めていた記録をもとに『陸軍中将樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版/2020年)を出版したわけです。

▲晩年の樋口季一郎(樋口隆一氏撮影)

もとになった祖父の膨大な手書きの原稿は、叔父が生前にワープロで清書してくれていました。とはいえ、やっぱり明治時代の教養人の書いたものですから、文章はかなり難解で、とてもじゃないけど現代人には読めません。出版社側からも「難字にはルビをふって現代仮名遣いに改めて、註や補足説明を足してほしい」と提案されていたので、僕もそのリライト作業を通じて、祖父の言葉と一字一句向き合いました。

その編集過程で、やっぱりよくわからない部分も出てきて「どうしておじいちゃんは、ここでこんなに怒っているんだろう」と疑問に感じるところもあったんです。今になるとその理由がわかるのですが、ようするに自分がこれまで訴えてきた「ソ連の脅威」を、参謀本部が無視し続けてきたことに対する怒りだったんですね。

岡部 樋口中将の目線は、ずっと北(ソ連)に向けていましたからね。樋口中将は盟友の石原莞爾中将とともに参謀本部内で「不拡大主義」を主張し、日中戦争の早期終戦を目指して和平工作をしていました。それは、日中戦争よりもソ連対策のほうがよっぽど大事だということを見抜かれていたからだと思います。

残念ながら、和平工作は陸軍省との意見対立もあって失敗に終わりましたが、現代の我々から見ると、樋口・石原の不拡大方針がやっぱり正しかったわけです。日中戦争はどんどん広がって泥沼化していきましたから。

▲石原莞爾。樋口季一郎とは陸軍士官学校の同期生 出典:毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」(ウィキメディア・コモンズ)

樋口 日中戦争を長期化させてしまったのは、大きな間違いだったと思います。だけども、当時日本国内では「とにかく国民一体となって戦え」という意見が多数派で、新聞も小さな戦いの勝利を「勝った!」と書いて騒いでいました。そうなると軍人も有頂天になる。実際、表面上は連戦連勝ですからね。

だから、不拡大方針を唱えて和平工作をしていた祖父は「臆病軍人」と言われ、東條英機以下に快く思われていなかった。それで、1939年12月に“栄転”の形で第九師団長として金沢に送られ、体よく大本営から追い払われたわけです。

▲東條英機 出典:Fumeinab sakuseir-shau h(ウィキメディア・コモンズ)

結局、祖父が参謀本部第二(情報)部長として陸軍の中枢にいられたのは、1938年8月から翌年12月までのわずか15カ月間しかありません。ただ、金沢でも情報部長時代とそれほど変わらない重要な仕事をしていたとも言われています。ソ連関連の機密文書は、まず第九師団の敦賀に届けられるので、それを最初に読むのが祖父だったからです。

今日の日本人に贈る、樋口季一郎の“遺言”

岡部 樋口中将が“栄転”される直前の1939年8月に、ドイツが仮想敵国であったはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結すると、首相の平沼騏一郎(きいちろう)は「欧州情勢は複雑怪奇なり」との声明を発表して、政権を投げ出してしまいました。ようするに、ソ連をめぐる的確な欧州情勢分析ができていなかったということです。

▲平沼騏一郎 出典:国立国会図書館(ウィキメディア・コモンズ)

でも、日本としては、その“複雑怪奇”な欧州情勢をしっかりと把握しておかなくてはいけない。だから、樋口中将は情報部長時代に、信頼できる部下たちをバルト海沿岸の国々に投入しました。

それが、リガの小野打寛(おのうちひろし)武官であり、少し後に41年にストックホルムに赴任した小野寺信武官。さらに、カウナスの杉原千畝領事代理も樋口中将の意向だった可能性が高いと思います。

対ソのインテリジェンスを強化するため、ソ連を取り巻くバルト海沿岸諸国での情報網を整備したわけです。これは今日のロシアによるウクライナ侵略戦争を踏まえても、本当に慧眼だと思います。100年前のソ連も、今のロシアも、自国の安全保障のために近接する小国を影響下に置いて支配する、という卑劣な行動は基本的には同じですからね。

樋口 目的のためなら手段を選ばない。国際的な約束も平気で破って攻めてくる。まったく変わらないですね。

岡部 そういう国が相手だからこそ、インテリジェンスが重要になるわけですが、日本の中枢は「作戦重視、情報軽視」で、まったく現実を見ていませんでした。「日中戦争拡大」という作戦を主観的に重視し、「対ソ劣勢」という客観的な情報を軽視していました。樋口中将は、それを「主観が客観を制した」と表現し、「危険きわまりなきしだいである」と批判しています。

樋口 その言葉は、我々に対する祖父の遺言だと思います。とにかく日本という国は、主観が客観に優先する。だから、なかなか決断もできない。でも、これからの日本はそれじゃいけないよ、というね。

岡部 本当に正鵠を得ています。それはまさに、今日もなお続いている日本の最重要課題ですからね。

▲「決断のできない日本」のままではいけないと語る樋口氏

〇【北海道占領計画】スターリンの野望を止めた祖父の意志を残したい! 樋口隆一さんの思い
プロフィール
樋口 季一郎(ひぐち・きいちろう)
ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた大量のユダヤ人難民を満州(中国東北部)で救った陸軍将校(最終階級は中将)。満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、ソ連を通過してソ連・満州国境のオトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。その功績から、「樋口季一郎」の名前はユダヤ民族基金がユダヤ民族に貢献した人物を讃える「ゴールデンブック」に記載されている。また、1945年8月には、ポツダム宣言受諾後に北海道へ侵攻してきたソ連軍を独断で阻止し、日本が分断国家となるのを防いだ。