なぜ義経は平家軍に勝てたのか?

一ノ谷の合戦の次は、屋島の合戦です。元暦2年(1185)1月8日、義経は、後白河法皇に対して、平家が拠点とする四国への出陣の許可を求めます。

当時、異母兄の範頼も頼朝の命令を受け、西国に出陣していましたが、兵糧は欠乏し、兵士の士気も下がり、作戦は進展していない状態でした。範頼軍の苦戦を知った義経は、このままでは平家の勢力が拡大してしまうと、平家を討伐するため出陣したいと法皇に申し出たのです。

朝廷・貴族のなかには、平家の家人・伊藤忠清が京都に潜伏しているとの噂があったことから、義経の派遣に難色を示す意見もありましたが、その一方で、義経を派遣し、早く雌雄を決し、内乱に決着を付けるべきだとの見解もありました。

結局、後者の意見が通り、義経は後白河法皇の許可を得て、出陣することになります。この出陣に、頼朝の許しはありませんでした。

▲壇ノ浦で舞った源義経 イラスト:稲村毛玉

義経は一ノ谷の合戦(1184年)後、約1年のあいだ京都にいて、その間に検非違使(京都の治安維持などを担う朝廷の役職)に任命されていました。いつの間にか義経は、後白河法皇の命令によって動く武者に変質していたのでした。

さて、摂津国渡辺津に逗留していた義経は、2月16日に四国に向かいます。後白河法皇の使者として、都から公家がやって来て「京都の警備のため、やはり帰ってきて欲しい」と要望しますが、義経はそれを受け入れず、そのまま出陣してしまいます。

『吾妻鏡』には、それに関して次のような逸話が載っています。京都から来た公家(高階泰経)が義経に「大将はまっ先に出陣するのではなく、先ず副将を行かせるのではないですか」と言い、義経を引き留めようとします。

ところが、義経は「思うところあって、戦で命を捨てようと思っているのです」というと出兵してしまったというのです。義経が出兵しようとしたときに暴風が起き、船が壊れるというハプニングが起こります。

船頭は、このような状態で船を出すのは危ないと出港を渋りますが、義経は「朝敵の追討軍が、暫くであっても、ここに立ち往生してしまうのは恐れ多い。波風を怖がってはいけない」と言い、無理矢理に船出させるのです。『平家物語』には、義経が船出を渋る船頭は矢で射て殺してしまえと脅し、出港させたと書かれています。

義経軍は翌日(2月17日)には阿波国に到着。そして、18日には讃岐国・屋島の平家軍を襲撃することになるのです。最初、阿波国・勝浦に到着した義経軍は、地元の武士の近藤親家を味方にして、平家軍の武士(桜庭良遠)を攻め、これを攻略。続いて、讃岐国に侵入し、民家を焼き払い、平家の本軍に攻めかかったのでした。

『吾妻鏡』には、義経軍が「民家を焼き払ったことによって、安徳天皇らは海上に逃れた」と書かれています。平家軍は敵の突然の襲来に動揺したのでしょうか。もしくは、民家が多数燃えているのを見て、敵は大軍と思い込み、退却してしまったのでしょうか。

貴族・九条兼実の日記『玉葉』には「(屋島西方の)塩飽島に、義経が来襲したので、(平家軍は)合戦に及ばずに退却し」と書いています。平家軍は合戦らしい合戦もせず、屋島を退き、長門国の彦島に追い詰められていくのです。屋島合戦の平家の有様を見たら、かつての勢い(都落ちして、九州まで退いても、また摂津国まで進出するような)はないように思います。敗亡の影が既に忍び寄っていたように思えてなりません。

▲屋島の古戦場 出典:show999 / PIXTA

屋島合戦の次は、いよいよ源平の最終決戦。壇ノ浦の戦いです。元暦2年(1185)3月24日、戦は始まります。この頃には、範頼軍に属していた三浦義澄の軍勢が、義経軍に合流していました。『吾妻鏡』では義経軍840艘、平家軍500艘としています。

壇ノ浦合戦は、関門海峡の潮流が勝敗に大きな影響を与えたとされてきたが、合戦が行われた時間帯は、潮流は静まっていたとの説も提示されています。

また、義経が平家軍の船の梶取を討つという「掟破り」(『平家物語』)が、源氏の勝利に大きく寄与したとの意見もあるが、そのような戦法は平家の敗色が濃くなってからのことで、戦況に大きく影響したという程でもないと思われます。

そのことよりも、平家軍に付いていた豪族の裏切りや、平家軍の士気の低さが、合戦の帰趨に影響を与えたと考えられ、多くの平家一門が討死、自害し、安徳天皇は入水、ついに平家は滅亡するのです。

▲「安徳天皇御入水之処」の石碑 出典:skipinof / PIXTA