NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第16回「伝説の幕開け」では、源平の戦いで名シーンとして描かれる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」が、これまでとは違う描写となり話題となった。第18回のタイトルそのままに「壇ノ浦で舞った男」源義経に魅了される人もいるだろうし、今までのイメージと異なる姿に戸惑う人も多いかもしれない。

ただひとつ間違いないことは、今回のドラマでは大泉洋さんが演じている源頼朝が恐れ、兄弟の仲に亀裂が入り「果たせぬ凱旋」になるくらいに、義経の武勇の誉れが高かったということ。歴史家で作家の濱田浩一郎氏が、義仲討伐から平家滅亡までの戦いぶりを紹介します。

義経に加勢した豪族たち

寿永2年(1183)閏10月、源頼朝から源義仲を討てという命令を受けた源義経は、伊勢国まで進軍していました。 当時の貴族・九条兼実の日記『玉葉』には、このときの義経の軍勢を「僅かに五百騎」と記しています。これから義仲を討伐するにしては、確かに明らかに少ない人数です。

しかし、『玉葉』には「僅か五百騎」の文に続いて、次のような文章があります。「その外、伊勢国人など、多く相従うと云々。また和泉守信兼同じくもって合力す」と。

つまり、義経の軍勢は少ないが、彼に加勢する伊勢の豪族が多くいたというのです。ちなみに、和泉守信兼というのは、平信兼のことで、伊勢平氏の出身でした。平氏であったのですが、信兼は平家都落ちに際してもそれに従わず、京都から伊勢に戻っていたのです。

平氏である信兼であっても、義経に加勢したということは「源平合戦」という内乱が、源氏VS平氏という単純な図式でないことを理解させてくれます。平氏であっても、その時々の情勢などによって、源氏に味方する者もいたということです。

義経が、なぜ義仲に勝てたのかという理由の一つは、義経の軍勢に伊勢の豪族、更には伊賀の豪族までもが加勢したこともあると思います。そして、義経の軍勢ばかりでなく、兄・源範頼の軍勢も美濃から近江に向かっていたこともあるでしょう。

一方の木曽義仲の軍勢は、このとき一千騎余りだったと言われます。更には、叔父の源行家はじめ、多くの者が義仲軍から離反・離脱していました。 弱体化する義仲軍に比べて、義経の軍勢は膨らむ一方で、古典『平家物語』によると2万5千の軍勢にまでなったとのことです。

軍記物では、軍勢数は誇大に記すことが多いので、さすがに2万5千の軍勢ではなかったでしょう。とはいえ数千騎ほど、義仲軍を超えるほどの軍勢になっていたと推測されます。こうした軍勢の差が、義仲が敗れ、義経が戦に勝利した大きな要因だったと思います。

「鵯越の逆落とし」の真実とは?

義仲を討伐した義経らは、すぐに平家との戦に向かいます。寿永3年(1184)2月5日、源氏の軍勢が摂津国に入ります。平家が拠る福原を攻めるため、源氏が選んだ戦法は、東西からの挟み撃ち。範頼は、福原の東を攻め、義経軍は福原を西から攻める。これが源氏方の作戦です。

一方、平家も福原の東には平知盛・重衡を、西の一ノ谷には平忠度を、山側には平通盛を配し、万全の防衛体制を敷いていました。総大将の平宗盛と幼少の安徳天皇は、福原沖の船の上にいました。万が一、大規模な攻撃があり、味方が敗走するとなったときに逃げやすいからです。

▲一ノ谷の義経道 出典:Camellia / PIXTA

さて、この一ノ谷の合戦で伝説となっているのが、義経軍が一ノ谷の後方にある険しい獣道、急な坂である鵯越(ひよどりごえ)を馬に乗ったまま駆け降り 、平家を奇襲・勝利したという「鵯越の逆落とし」です。

『平家物語』でも、この逆落としが描かれていますし、それを基にして、時代劇や大河ドラマで何度もそのシーンが描かれてきました。ある意味、壇ノ浦や屋島合戦よりも、義経の活躍の見せ場として逆落としが描かれてきたようにも思います。

しかし、同時代史料を読んでいくと、義経は鵯越の逆落としをしていないのではないか、ということが浮かび上がってくるのです。その同時代史料は何かというと、貴族で関白も務めた九条兼実の日記『玉葉』です。この『玉葉』の寿永3年(1184)2月8日の項目に、一ノ谷合戦に関する次のような文章があるのです。

「藤原定能が来て、合戦の詳細を語ってくれました。源義経は背後の一ノ谷を攻めました。次に源範頼は福原に攻め寄せて程なく攻略しました。多田行綱は山から攻め寄せ、最も早く山の手を攻め落としました」

この日記の文章からわかることは、義経は山の方から攻め寄せていない。つまり、鵯越の逆落としをしていないということです。山の方から平家軍に攻め寄せているのは、多田行綱という武将です。多田行綱は摂津源氏でありましたが、もともとは平家に仕えていた。しかし、このときは源氏に味方していたのです(変わり身が早いと言えましょう)。

それはさておき、日記『玉葉』からわかることは、一ノ谷合戦の鵯越の逆落としに相当するものは、多田行綱がやっていたということです。しかも、この鵯越、鹿しか通れないような断崖絶壁の険しい獣道のように思われてきましたが、実はそうではありませんでした。山中の間道ではありましたが、福原に至る重要ルートだったのです。

摂津源氏である多田行綱は、福原周辺の地理をよく知っていたことから、山の手の攻撃を任されたのでしょう。その行綱がまっ先に山間部から平家軍を攻撃。これによって、平家軍は動揺し、そこを義経と範頼が東西から攻撃を加えたため、平家は敗れたと見ることができます。

もちろん、鵯越の逆落としをしていないからといって、義経の軍事的評価が下がるということはありません。ただ、鵯越の逆落としという、かっこいいシーンが本当はなかったということで、ちょっと残念と思われる方もいるかもしれません。