危険を感じたブラジルでのサッカー観戦

サッカーの本場は、とにかく驚きの連続だった。道ばたや公園、あらゆる場所で大人も子どもも、みんながボールを蹴っているのは当たり前。そして、そのレベルの高さたるや。下っ腹が見事に飛び出たおじさんですら、ボールを扱わせると華麗な足技を披露する。当然プロの試合もレベルが高く、見ていてワクワクしたし、とても参考になった。

また、ブラジル人のサッカーに対する情熱も、やはり日本とは違う。

何度か試合を見に行ったが、スタジアムに訪れる人々の目的は、観戦ではなく自らも選手と一緒に戦うためだ。チャンスの場面では地響きのような唸り声が上がり、敵がボールを持てば大合唱で威嚇する。会場全体がひとつの生き物のようで、サッカーを見に行って身の危険を感じたのは初めてだった。

そんな意識の違いは、育成年代の現場でも顕著に現れる。留学中は現地のクラブチームに練習参加するなど、同世代のブラジル人とサッカーをする機会もあったのだが、とにかくハングリー精神がすごい。たとえチームメイトだろうが、プロを目指すうえでは全員がライバル。相手を蹴落としてでも生き残ろうと、みんな必死だった。

ブラジルの子どもたちにとって、サッカーは習い事や部活動ではなく、ひとつの生きる術なのだ。もちろん、仲間やチームのことを大切に思っているので普段は仲が良い。しかし、ことサッカーに関しては、どこまでもシビアで弱肉強食の世界だった。

とにかく、日常のあらゆる場面でサッカーを目にしないことはなく、ブラジルではまさにサッカーが生活の一部と化していた。

▲エスタジオドマラカナン 出典:rasinona / PIXTA

そんな環境のなか、技術的にたくさんの学びがあったのはもちろんのこと、それ以上に貴重な財産になったと感じているのは、生活習慣や物事の考え方、価値観といった部分だ。

毎日のスケジュール管理に始まり、お金の使い方や掃除や洗濯といった日常的なこと、もっと言えばバイキング形式の食事で何を選ぶのか。すべてを自分で考えて、決めなければいけない境遇に身を置いた。社会人として自立している大人であれば当然のことでも、中学生になったばかりの子どもにとっては簡単ではない。

それから当たり前だけど、日本語はまったく通じないので、ポルトガル語を扱えなければ会話や細かいコミュニケーションは成立しない。ただし勉強を強要される環境ではなかったので、基本的には独学で勉強するしかない。

正直、あらゆる面においてラクをしようと思えば、いくらでもできてしまう。しかし、選択した行動は必ず自分自身に跳ね返ってくる。だからこそ、自分のなかで「じゃあ、どうすればいいのか」が大きな意味を持つフレーズとなり、考えることが習慣になっていった。

例えば、ブラジルは治安の悪い国というイメージを持たれがちだ。実際の記憶として、警官はマシンガンを首からぶら下げていて、一般人でも銃を所持している人が多かった。家の窓や車庫は鉄格子が多く、防犯への意識はとても高い。

でも、だからといってブラジルで生活することが、常に危険と隣り合わせかといえば、そんなこともない。してはいけない行動は何か、行ってはいけないエリアはどこか。そういった知識を持って考えられれば、身の危険に遭遇する確率は減る。

生きることすべてを考えて過ごした。

それはサッカーに通ずる部分も多くて、試合に出場するために何をすべきなのか、ゴールを決めるためにどうすればいいのか、さまざまな壁を乗り越える根本の部分になったと思う。思考し続ける習慣と自己責任の意識を、自分のスタンダードにできたことに大きな意味があった。

ブラジル留学がなければ、今の自分はいないと断言できる。ひとりの人間として生きるうえでの、僕なりの道標をブラジルで見つけた。それが自分のサッカー選手としての在り方の核となり、40歳になった今もプロサッカー選手を続けられている。