NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第25回「天が望んだ男」、源頼朝が馬から落ちたラストシーンで終わりとなり、次回の冒頭がどのような感じで始まるかが気になるところ。頼朝の死期が近くなるにつれ、徐々に不穏な空気が演出されていたが、息子である頼家が無事に「鎌倉殿」になれると、頼朝は本当に安心していたのだろうか。
なぜなら、弟である源義経や同じ一族の木曽義仲であっても滅ぼし、上総広常や伊東祐親などの仲間たちも殺してきた様子がドラマでも描かれている通り、現代に生きる私たちの感覚では理解できない武士としての姿が、そこにはあったからだ。
鎌倉時代の武士の生活を描いた絵巻物として、日本史の教科書でも紹介されていることが多い『男衾三郎絵詞』。そこに登場する主人公は架空の人物ですが、『鎌倉殿の13人』でも登場回数の多い鎌倉武士の畠山重忠がモデルの可能性もあると、歴史家で作家の濱田浩一郎氏が教えてくれました。
武士たちの内紛はなぜ繰り返される?
鎌倉幕府の実質的な支配者にのし上がっていった北条義時。その過程では、有力御家人との壮絶なバトルがありました。例えば、梶原景時の変(1199〜1200年)、比企能員の変(1203年)、畠山重忠の乱(1205年)、和田合戦(1213年)などです。
「鎌倉武士はなぜ、こんなにも内紛を繰り返すのか?」と嘆息したくなるほどですが、その問題を解き明かしていきたいと思います。とは言え、内紛の原因は、一口で言い表すことができない場合が多いです。
あるときは家督をめぐる問題、あるときは権力への野心、そして感情のもつれ。時と場合によっていろいろあると思うのです。しかし、私はそれに加えて、武家・武士という者たちの精神性も大きく関連しているのではないかと考えています。
武士は、どのような気質を持っていたのか。その一面を見ていきましょう。鎌倉時代の後期に描かれた絵巻物に『男衾三郎絵詞』というものがあります。鎌倉時代の武士の生活を示す素材として、日本史の教科書にもよく掲載されていますので、見たことがあるという人も多いかもしれません。
主人公は武蔵国の武士・男衾三郎です。この絵巻物には、次のような場面が描かれています。着物を着た男女が、三郎の館の前を通っているのですが、すると、館のなかにいた武士が外に出てきて、見ず知らずの通行人を捕まえようとするのです。なぜか。この絵巻物には、三郎の命令としてこのような言葉が書かれているのです。
「馬庭の末に生首絶やすな。切り懸けよ。此の門外通らん乞食・修行者めらは、やうある物ぞ、ひきめかぷらにてかけたて、おもの射にせよ」と。まず「馬庭」というのは、武士の家の庭のことです。「おもの射」(追物射)とは、犬などの動物を矢で射ること。
しかし、三郎が言っているのは、動物を射ろではありません。屋敷の前を通るホームレスや修行者を捕まえて、狩りの獲物の如く、矢で射てしまえと主張しているのです。しかも「生首絶やすな」と。人の首を斬って、ドンドンと庭に懸けておけ、なんてことも言っている。まぁ、酷い話です。
しかも、三郎とは、物語の設定としては盗賊や下級武士ではありません。三郎のお父さんは、武蔵大介といって、武蔵国の役所で治安を取り仕切っていた有力武士。その息子が三郎なわけです。
三郎は実在の人物ではありませんが、モデルがいたと言われています。それは誰かというと畠山重忠、大河ドラマでは中川大志さんが演じている男です(テレビでお馴染みの東大教授・本郷和人先生も、三郎のモデルは畠山重忠と推測されています。重忠は埼玉県の男衾に館を構えていたからです)。北条義時と同じ時代に生きた武将であり、鎌倉幕府の有力御家人でした。最後には、謀反の疑いをかけられて北条氏に討たれる人物で、「坂東武士の鏡」とまで称賛されていました。
武士とは殺生や戦を生業とする人々
さて、話を絵巻物に戻すと、この絵巻は、武士の残虐性や凶暴さを非難するのではなく、勇猛さを称賛するものなのです。その証拠に、先程紹介した文章の続きには「武勇の家にむまれたれば、其道をたしなむべし」とあります。つまり、武士の家に生まれたならば、そういった武勇を嗜む、身につける必要がある」というのです。このような話が書かれているのは、これだけではありません。
鎌倉時代末期から南北朝の動乱時代を描いた『太平記』という軍記物語がありますが、そのなかで、白河結城家の当主・結城宗広(道忠)を次のように紹介しているのです。
「道忠が平生の振舞をきけば、十悪五逆重障過極の悪人也。鹿をかり鷹を使う事は、せめて世俗の態なれば言ふにたらず。咎なき者を殴り縛り、僧尼を殺す事数知ず、常に死人の首を目に見ねば、心地の蒙気するとて、僧尼男女を云ず、日毎に二、三人が首を切て、態目の前に懸けせけり(後略)」
宗広は、常日頃、罪なき人を殴り縛り、そればかりか、人の首を見ないと気分が落ち込むと言って、男女の首を切り、目の前に置いたというのです。
『太平記』の作者は、宗広を「悪人」としていますが、現代から見てもまさに異常者です。三郎にしても宗広にしても、なぜそのようなことをしたのか?
「異常だったから」で片付けられたら簡単ですが、何か理由は考えられないでしょうか。いろいろと想像できそうですが、私の考えを述べておきます。まず、武士は殺生や戦を生業とする人々です。よって、そうしたイザという時のために備えて、周りから恐怖の目で見られていたほうが都合が良かったのでは? と推測しています。だから、そのような行為をしたのではないかと思うのです。
また、合戦に備えて、人をある意味「実験台」にして、武芸の稽古をしたとも考えられます。いずれにしても、とても荒々しい感覚・気風であります。鎌倉幕府内の数々の内紛勃発の要因には、そうした中世武士の気風も少しは絡んでいたのではないかと思うのです。