オスマン帝国の支配から逃れるため、カラジョルジェの指揮のもとロシアの力を借りながら行われた第一次セルビア蜂起。オスマンに勝利し独立するも、のちに王制となるセルビアの玉座についたカラジョルジェヴィチ家は、ある凄惨な事件の「祟り」を受けることになり、さらに「亡霊切手」として人々の噂が広まったのです。

いわゆる心霊写真とされるものの多くは、技術的なミスによって生まれることが多いという。そして、現在に比べると製版・印刷技術が未熟だった時代の切手には、結果的に心霊現象が現れたかのように見えるものがいくつかあるのだ。

※本記事は、内藤陽介:著『本当は恐ろしい! こわい切手​』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。

王位を巡る争いの歴史が生んだ亡霊切手

最初に、次の切手を見ていただこう。

▲第一次セルビア蜂起百周年を記念して発行されたセルビアの記念切手

この切手は、1804年の第一次セルビア蜂起から百周年を記念して、1904年に発行されたもので、古くから“セルビアの亡霊切手”として有名な一枚である。

バルカン半島は14世紀以来、オスマン帝国の支配下に置かれていたが、1804年、家畜商人のカラジョルジェ(ジョルジェ・ペトロヴィチ)率いるセルビア人が、帝国の圧政に対して叛乱を起こした。これが、近代セルビア史の出発点とされ、上の切手の主題ともなった第一次セルビア蜂起である。

第一次セルビア蜂起が起きると、これを鎮圧しようとするオスマン帝国と、セルビア人らを支援するロシア帝国のあいだで、1806年に(第三次)露土戦争が勃発。露土戦争は1812年にロシアの勝利で終結し、ロシアが手を引いたことで後ろ盾を失ったセルビアの叛乱も、1813年にはいったん収まった。

しかし1815年、セルビア人は同じく家畜商人のミロシュ・オブレノヴィチ一世を指導者として、再度オスマン帝国に対して叛乱を起こし(第二次セルビア蜂起)、制限つきながらもオスマン帝国から自治権を獲得する。

その後、1830年にはセルビアは完全な自治を承認され、オブレノヴィチ家がセルビア公となったが、1842年のクーデターでカラジョルジェ・ペトロヴィチ(1817年にオブレノヴィチに暗殺された)の息子、アレクサンダル・カラジョルジェヴィチがセルビア公となる。

しかし、アレクサンダル・カラジョルジェヴィチは、議会と対立して1858年に廃位され、ルーマニアに亡命。その後は、ミロシュ・オブレノヴィチ一世がセルビア公として復位し、その血統がセルビア公を継承した。

そして、1877〜78年の露土戦争でロシアが勝利したことで、1878年、セルビア公国はオスマン帝国からの完全独立を達成。さらに1882年、セルビア公国はハプスブルク帝国の承認を得て王制に移行し、セルビア王国となる。ちなみに、セルビアとしての最初の切手が発行されたのは1866年のことであった。

ところで、セルビア王国の王位はオブレノヴィチ家に受け継がれたが、1903年6月11日に軍事クーデターが発生し、国王アレクサンドル一世と王妃ドラガは王宮で銃撃され、息があるうちに宮殿二階の窓から投げ落とされて殺された。

アレクサンドル一世夫妻には子どもがなかったため、事前の取り決めでは、セルビアの王位は、モンテネグロ国王ニコラ一世の次男で、1902年にオブレノヴィチ家のナタリヤ・コンスタンティノヴィチと結婚していたミルコ・ディミトリエ・ペトロヴィチが継承することになっていたが、アレクサンドル一世の死後、クーデター勢力は、オブレノヴィチ家とは敵対関係にあったカラジョルジェヴィチ家の当主で、当時フランス在住だったペータルを急遽帰国させ、セルビア王ペータル一世として擁立した。

現王族だけに降りかかったセルビア王の祟り

クーデター後の新政府は、オブレノヴィチ家ではなく、カラジョルジェヴィチ家がセルビア王位の正統な継承者であることをアピールする必要があったから、カラジョルジェが主導した第一次セルビア蜂起をセルビア国家の原点として、その歴史的意義を強調した。

そして、1904年が第一次セルビア蜂起から百周年にあたっていたことをとらえ、これにあわせて前年の1903年に王位を継承したペータル一世の戴冠式を行うとともに、カラジョルジェとペータルの肖像をならべた図案の記念切手を発行し、カラジョルジェに始まる“カラジョルジェヴィチ王朝”の百周年を祝ったのである。

百周年の記念切手が発行された背景には、こうした事情があったわけだが、そこから、この切手をめぐって奇妙な噂が流れ始めた。

すなわち、切手を上下さかさまにすると、二人の肖像のあいだに別の顔が浮かび上がってくるが、これは非業の死を遂げたアレクサンドル一世の亡霊ではないか、というのである。

▲記念切手の一部。この顔がセルビア王に見えると噂に。

ペータル一世本人は、フランスで教育を受けた開明的な君主として、セルビア国民の人気を集めた人物だった。

第一次大戦後の1918年、セルビアはモンテネグロ、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(旧ハプスブルク帝国南端部に成立した国家)を統合して、ユーゴスラヴィア王国を成立させて、自ら国王として即位。1921年に77歳で崩御するまで王位を維持した。

現在なお、セルビア人のあいだでは彼は名君として高く評価されているから、彼に関しては、“アレクサンドル一世の亡霊”が障ることはなかったとみてよいだろう。

ただし、ペータル一世の息子で1921年に王位を継承したアレクサンダルは、1928年に暗殺された。

また、その子(ペータル一世の孫)のペータル二世も、第二次大戦中の1941年に英国への亡命を余儀なくされ、亡命中の1945年、ユーゴスラヴィアを制圧したティトーのユーゴスラヴィア共産党が王制を廃止したために生涯帰国できず、1970年にロサンゼルスで客死するなど、国王として天寿を全うすることはなかったから、“アレクサンドル一世”の祟りがないわけではなかったといえるのかもしれない。