京都大学理学部を卒業後、大学院へと進み博士課程を経て著述業に。専攻は動物行動学で、著書が出版賞を受賞し、ベストセラー作家となった竹内久美子氏。順風満帆な人生を歩んできたと思われることが多いが、小学生の頃の成績はオール3で、優秀な兄たちには「3ばっか大将」と揶揄されたそうです。その後、高校へと進んだ竹内氏が経験した青春時代の思い出。
※本記事は、竹内久美子:著『66歳、動物行動学研究家。ようやく「自分」という動物のことがわかってきた。』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
独自の解き方を披露すると拍手が起こる授業
私が進学した高校は、愛知県立旭丘高等学校である。旧制では愛知一中と呼ばれ、当時のバンカラ気質がまだ残っている高校だった。この学び舎では、学力だけでなく、人格においても最高レベルの者たちに出会うことができた。
私が進学した当時、旭丘高校(正確には普通科のほかに美術科が1クラスあった)は、尾張地方の秀才が一堂に集まるほどの進学校であった。普通科のクラスは9クラスあり、1クラスが40人。女子は10人くらいだった。大学進学者数は東大50人、京大50人くらい。あとは当然というべきか、名大(名古屋大学)が多かった。
旭丘高校の特徴として「全人教育」というものがある。受験に関係ない科目であっても、しっかり勉強して教養を身につけ、なおかつ部活動にも力を入れよ、というものだ。部活動をさぼっていると「幽霊部員」として塾に通うことになるが、私もその1人である。
著述業になってからの担当編集者に、全国でも有数の中高一貫の私立学校から、東大文学部というエリートコースを歩んだ人物がいた。彼によると、人生で一番勉強したのが、中学受験の頃だったそうだ。
入ってしまえば中高と遊び放題で、勉強は大学受験のための科目だけをする。理科は地学を選択し、それは地学が一番、学ぶのが楽だからで、その学校では常識とされていたという。ひたすら大学受験のための教育機関だったそうで、その実態にひどく驚いた。学校自体はそういう方針ではないのかもしれないが、我が母校の全人教育を誇らしく感じたものだった。
旭丘高校の素晴らしい点は、生徒がとても人格的に優れているということだ。学力が抜群なことは言うまでもないが、それよりも人格が素晴らしいのだ。
また、この高校にはいじめがなかった。ほかの女子に多少の嫌味を言われる程度のことはあったが、誰かをターゲットにして皆でいじめるなどというバカげたことはなかった。それは生徒の人格が素晴らしいうえに、極めて個性的な人間の集まりであったからだと思う。ほかと違うことを何より尊重しあうのである。
たとえば数学の時間。宿題に出された問題について、指名された生徒が黒板に解答を書いていくのだが、参考書に載っているような解き方であると、「なんだ、チャート式、そのまんまじゃないか」と、今で言うところの「スルー」をされる。
しかし、どんな参考書にも載っていない独自の解き方を披露すると、「おお!」という、どよめきの声とともに拍手まで巻き起こるのだ。ここまでハイレべルな知的体験は、自由やオリジナルが尊重される京大においても、そうあるものではなかった。
負けず嫌いを発揮しクラスで一番の成績をとるが・・・
旭丘に進学してつくづく思ったのは、世の中、上には上がいるものだということだ。この場合は単純に学力についてである。そこで負けず嫌いの私は、「よし、勉強で男をやっつけてやるぞ」と猛勉強してみたところ、2年生のときに、とうとうクラスで一番の成績をとってしまったのだ。
と同時に、身の程もわきまえず、あまりに頑張りすぎたせいか、睡眠がうまくとれず、頭が重く、心が沈み、記憶力が低下するという症状を抱えるようになった。随分あとになってわかったことだが、軽いうつ状態に陥っていたのだ。今の時代なら“うつ”についての知識はたいていの人が持っており、精神神経科や心療内科を受診することにほとんど躊躇はない。しかし当時はそのような発想はなかった。
結局、その状態は3年生を終え、受験に失敗し、1か月ほどぼーっと過ごし、予備校に通い始めて1週間ほど経った、ポカポカ陽気の日まで続いた。バスを降り、予備校に向かう途中で、「あれっ、そうだ、これが本来の感覚だ。治ったのかも?」と実感したのである。
ともあれ、旭丘高校での体験は、今でも宝物のように心にしまっている。勉強ができるという遺伝的才能を持った者たちが一堂に会し、切磋琢磨するという素晴らしい環境。当時は、動物行動学も進化論も知らなかったが、人間は(実は人間に限ったことではないのだが)、常に遺伝と環境の両方の力によって成り立っているということを体験し、後に理解したのである。