統治時代に日本が積極的に普及に貢献し、今や韓国・台湾の両国で国民的スポーツとなっている野球。韓国では一時観客動員数が540万人を記録したり、台湾出身のメジャーリーガーが大活躍と大きく発展している。世界中で国際交流や言語活動を行う李久惟(リ ジョーウェイ)氏が、日本なしには語れない韓国・台湾の野球史を紹介します。
※本記事は、2015年6月に発売された李久惟:著『台湾人から見た日本と韓国、病んでいるのはどっち?』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
日本との縁は切っても切れない韓国の野球史
韓国も野球が盛んな国である。
韓国のプロ野球は1982年に創設され、年間300万人弱の観客動員数がいるほど盛んなスポーツとなり、現在は球団数が10球団に増加している。
よく知られているように、日本のプロ野球においても発展の過程の中で台湾出身の選手以外にも、在日朝鮮人選手の存在はあった。
野球史そのものの中で日台の野球の交流史があるように、日韓も密接だったはずだが、今の韓国野球界はあまり日韓の野球交流史についても触れることがない。その点でも、台湾の場合と大きく異なるところだ。実際、ネットで韓国野球委員会のページなどを調べて見ても、日本統治時代の日韓野球交流についてはほとんど書かれていない。
韓国はWBC第1回大会で日本、アメリカを破りベスト4に進出した。また、韓国野球は読売ジャイアンツなどの主砲として日本でも活躍したイ・スンヨプを輩出している。その発展に重要な役割を果たしたのが、日本統治時代に野球を広めた日本人たちと、彼らに教えられた球児たち、そして戦後に日本の野球で鍛えられた在日コリアンたちの存在である。
06年のWBC終了後に出版された、ノンフィクション作家の大島裕史(ひろし)氏の著作『韓国野球の源流』(新幹社)の中でも、韓国野球のルーツについて書かれ、特に戦後の韓国野球の発展がつぶさに綴られている。
韓国には、1905年にキリスト教のアメリカ人宣教師の手によって野球が伝わったとされている。そして同年に設立されたYMCA野球団は、日韓併合後の1912年11月、朝鮮スポーツ史最初期の海外遠征として、日本で試合を行っている(成績は1勝5敗1分)。台湾のチームと同様、韓国からも日本の甲子園大会に出場したチームがあったが、1920年頃が野球ブームのピークとなったという。
第二次世界大戦後も各級学校における野球や社会人野球などは続き、81年12月11日、サムスン、ロッテ、MBC、OB、ヘテ、三美(サンミ)の6球団により、プロ野球創立総会が開かれ、翌82年にプロリーグが開幕して人気を博すことになる。
人気が加熱するあまりに暴動が起きるほどだったが、その後も観客動員数は順調に伸び、86年には8球団体制へと拡大。95年には、LGとロッテの2球団が年間100万人動員を超えるなど観客動員数が540万人を記録、プロ野球の人気は絶頂に達した。
しかし、90年代中盤にメジャーリーグで朴賛浩(パクチャンホ)、日本プロ野球で宣銅烈(ソンドンヨル)など、海外で活躍する選手たちが登場し始め、国内野球ファンの目がそちらに注がれるようになった。それに加えて97年の経済危機の影響も受け、人気低迷に拍車が掛かってしまう。経営難に陥った球団も現れ、球団売却なども繰り返し行われるようになったのである。
さらにその後はサッカーの人気に押され人気が下がり、現在は300万人台まで観客動員が落ちたという。しかし、今後の野球での日韓戦や台韓戦の楽しみもあるので、韓国野球のさらなる発展を期待したい。
100年を越える日台の野球交流史
野球は台湾でも最も盛んなスポーツのひとつである。野球の台湾代表は92年のバルセロナオリンピックでは銀メダルを獲得した実績を持ち、またWBC参加国としても名を連ねている。野球は台湾の事実上の国技であり、国内の500圓紙幣の絵柄に少年野球チームが採用されているほどだ。
1905年頃より日本から台湾に野球が伝わった時からというので、実はすでに100年を越える日台の野球交流の素晴らしい関係が築かれてきたのをご存じだろうか?
日本統治時代の当初から、日本の先人は台湾の野球の普及に力を入れ、甲子園にも台湾代表枠があるほど野球は盛んに行われたスポーツだった。
そして、戦後もアマチュアからプロ野球の成立、さらにプロ成立後から現在まで、日本の野球人たちは、台湾の野球に対して細やかな指導や、その発展に惜しまない協力を現在も変わらずにしてくれている。
これまで台湾のアマチュア野球界では、台湾と日本の野球選手を始め、トレーナー、コーチ、監督など広い範囲で交流、技術指導などが交わされている。特にアマチュア野球や少年野球などの交流試合も日台で盛んに行われているのだ。
おかげさまで、遅咲きながらもようやく90年に台湾国内初のプロリーグ「中華職業棒球聯盟」(現在4球団のリーグ構成)が発足し、台湾のプロ野球が始まった。その成立後には、日本人選手はもちろん、コーチや監督が活躍してきた。
例えば、埼玉西武ライオンズの元監督の渡辺久信ゼネラルマネジャーも、かつて台湾で選手・コーチとして活躍していた時期があった。同時に日本プロ野球側は、特にプロ野球の審判員などの教育・指導に大きく関わってくれたのである。
反対に、台湾からも多くの優秀な選手を輩出し、日本のプロ野球チームで活躍してきた経緯もある。例えば、台湾籍で日本生まれの王貞治氏は、日本だけではなく台湾でも知名度も高い。以前には中日に郭源治と大豊泰昭(たいほうやすあき)、西武に郭泰源(かくたいげん)、ロッテに荘勝雄(そうかつお)、巨人には呂明賜(ろめいし)などがいて活躍してきた。
それ以降もたくさんの選手たちが来日しているが、近年では有名なのは陽(ヤン)兄弟だろう。兄の陽耀勲(ヤンヤオシュン)は福岡ソフトバンク・ホークス(13年退団)、そして弟の陽岱剛(ヨウダイカン)は北海道日本ハム・ファイターズで、それぞれの球団で活躍してきたのはご存じのとおりである。
近年では日本のチームだけでなく、アメリカのメジャーリーグに在籍する台湾人選手が増え、06年にMLBで19勝を上げて最多勝を獲得した王建民(ワンチェンミン)(元ヤンキース)は台湾の英雄的存在である。
以上が、日本と台湾の百年を超える、野球の絆の歴史である。