阪神に移籍して数年、少しずつ世代交代が近づいてくる。これからの野球界を担っていく選手と切磋琢磨しながら、自分が得てきたものを後輩に丁寧に受け継いでいく野口寿浩氏。そして、横浜ベイスターズへの移籍――。今回は、現役時代を共にした「すごい選手」たち。そして、野口氏が目指すこれからの野球人生について、思いのたけを語ります。

「クセ読み名人」伊原コーチ対策は真夏でも長袖

前回、現監督たちとの思い出を語りましたが、すごい選手たちはそれだけではありません。まず、すごいといえば、伊藤智仁さんです。

1993年、キャンプが終わって、オープン戦の終盤くらいに、新人だった智さんの球を神宮で捕りました。肩慣らしのあと、「ストライクぎりぎりに構えてくれ」と言います。その構えたところにドーンと来るんです。それで「ナイスー!」と返すと、まったく同じところにまたドーン。

「次はボールもう1個分外して」と言うのでミットを少しずらすと、そこにまたドーン。真っ直ぐでもスライダーでもそうなのです。あんな投手は後にも先にも智さんだけです。

阪神時代、巨人戦で困ったのは阿部慎之助です。なぜか対戦直前にいつも絶好調で、データを見ても頭を抱えるだけ。好調じゃないときはいつなんだ……と思っていました。

広島は緒方孝市さん、野村謙二郎さん、金本知憲さん、江藤智さん、前田智徳って、みんなトリプルスリーみたいなものですからね。火が点いてしまうと、どうしようもなかったです。なので、同い年の前田が打席に入ったときは、集中できないように「夕べ何食ったの?」とか「広島のうまい飯屋教えてよ」とか話しかけました。

あるときタイムをかけて、「お前うるさいんじゃ!」と怒られました。こっちはシメシメです。翌日の練習時に僕のところに来て、「頼むから話しかけないでよ」と言うので「イヤだよ、続けるよ」と返事していましたね(笑)。

オリックス時代のイチローは、何を待っているのかよくわからないタイプでしたが、いいピッチャーのウイニングショットを狙うことが多かった。相手に大ダメージを与えようという戦略だったのだろうと思いますね。

ダイエーは抑えようがないすごい打線でしたが、井口資仁の盗塁だけはどうしても刺せませんでした。当時の島田誠走塁コーチが、ピッチャーの牽制フォームの癖を研究していたそうで、足を上げる前から牽制か投球かわかっているようでした。

それで思い出したのが西武コーチ時代の伊原春樹さん。西武の攻撃時は三塁コーチャーズボックスにいたのですが、捕手の右腕のスジの動きでサインがわかるとか、投手のグラブの中の握りがわかるとか、まことしやかにささやかれていました。それで、真夏でも西武戦に限っては長袖のアンダーシャツが必須でした。真偽はわからないのですが、噂がある以上、防げるものは防げとのことでした。

夏場はものすごく暑いのに長袖を着させられて、あまりにも鬱陶しかったので、一度サインを出したあとで、伊原コーチに向かって「サイン、見えてますか?」って聞いたことがあります(笑)。

シーズン初スタメンで達成した“ノーノ―”

もうひとつ、忘れられないのは井川のノーヒットノーランです。04年当時の岡田さんは、選手を固定するタイプで、捕手は基本的に矢野さん。僕の出場は大量点差がついたときと、一塁と外野を守った24試合に留まりました。それでも一軍投手陣の状態を把握し、いつでも代わりが務まるように、各投手をリードするプランは練っていました。

ようやく初めてスタメンマスクを被ったのは、すでに優勝チームが決まったあとの10月4日、広島市民球場。先発はエース井川慶、広島もエース黒田が先発でした。試合前、ブルペンでの井川の調子は最悪でした。ストライクは入らないし、球も走らない。仕方がないので、いつもより変化球を多くして慎重に立ち上がろうかと話をしました。

すると意外なことに、3回まで三者凡退が続きました。真っ直ぐ狙いの相手の指示が裏目に出たようです。4回ウラの守備につくとき、カープがベンチ前で円陣を組みました。これで「狙いを変化球に変えるな」とわかりました。

二回り目は真っ直ぐばかり投げさせると、どん詰まりの連続。7回ウラにまた円陣を組んだので、思うつぼだなと思いながら、残りはいろいろ混ぜながら、いつものピッチングをさせました。

試合は1ー0、阪神がわずか1点のリードで9回ウラへ。先頭を四球で出しますが、ショートゴロ併殺崩れが2つ続きました。守る野手も打者走者も必死です。

二死一塁で、打席にはこの年の首位打者、「赤ゴジラ」として大ブレークした嶋重宣。緊張する場面でしたが、井川はまったく表情を変えません。最後は渾身の速球で詰まらせ、レフトフライでノーヒットノーラン達成。ブルペンで調子が悪かったからこそ生まれた快挙でした。