バッハとシェーンベルクを中心とする西洋音楽史を講じ、現在は明治学院大学名誉教授、そして指揮者としても活動する樋口隆一氏。その樋口氏の祖父が、2万人のユダヤ人を救った“もう一人の東洋のシンドラー”と呼ばれる樋口季一郎陸軍中将。

この連載では、樋口季一郎が半生を通じて「ロシア独自の侵略観とは何か」を学んでてきた過程を、一見おもしろおかしく綴ってきた記録でもある回想録から、大正十四年(1925)、ポーランド駐在武官としてシベリア経由ワルソーに赴任した期間を抜粋。

ワルソーに赴任し、語学を勉強するとともに、足りない部分をダンスで補ってみせた樋口季一郎。着実にポーランドで地位を確立していく彼が、日本を代表してポーランド陸軍の大演習を参観する事となったが…。

ポーランド陸軍の大演習に日本代表として派遣された樋口

大正十四年の初夏、ポーランド陸軍において独立後最初の大演習がカルパチア山麓で行われることとなった。その目的は、ポーランドの陸軍もかくまで成長し、もはやフランス陸軍の援助なくとも自立し得るものなることを内外に宣伝するにあった。

▲カルパティア山脈の衛星写真 Jeff Schmaltz, MODIS Rapid Response Team, NASA/GSFC(Wikimedia Commons)

しからば当時ポーランドには幾何の戦力があったかといえば実に陸軍三十師団であり、今日米国が日本に要望する数字であった。

ポーランド陸軍の目標はもちろん東方ソ連にあるが、かねて西方ドイツに対してもその一部が対抗していた。当時のドイツは警察軍であり、大した戦力を持たず、僅かに東プロシャの東国境とポーランドとの国境の要衝等にひそかに人家等を利用するトーチカ(ロシア語のトーチカとは「点」であり、火点を意味する)による消極主義の国防力に甘んじ、否、甘んぜざるを得なかったのであった。それはパリを中心とする国際コントロール機関が眼を光らせていたからである。

このドイツによって創始され、やむを得ずして考え出されたトーチカ式防禦方法が、ソベートロシアにより完全に取り入れられ応用せられたのであって、その後日本が満州国を創った頃、ソ連は満州国の東、北、西正面において二重三重のトーチカを骨幹とする陣地を構築したものであり、満州側の防備は明らかにそれに比し遅れていたといい得る。

ソ連のトーチカ構築のため、日本の貿易商社はソ連へ多量のセメントを輸出したものであった。それは貿易のため国防力を売ったともいい得る。しかしその反面、その利益により満州側の防衛力又は戦力を充実したとすれば何も驚くにもあたらない。この辺の相互関係は現在自由主義国家群の共産国への戦力物資輸出制限問題についてもいえることであろう。

ポーランド、それはドイツ語のポーレンでありロシア語のポリシアである。それはポーレ(野原)である。実にポーランドは野原の国であって、南国境にカルパチアがあるだけである。その外には山らしい小山すらも見られない。日本のように野らしい原野の見られないのと対照的である。

かかる国の人々の海洋に対する憧憬というものはこれ又まことに私どもの想像の外のものである。

この憧憬が結晶し、第一次大戦後ポーランド独立に際して、ダンチヒ付近に海岸まで廊下のごとき細長いポーランド領土が人為的に設定されたのであった。その結果としてドイツは東方に東プロシャなる海に囲まれざる、三方陸に囲まれた「離島」を持つこととなったのであった。ベルリンからケーニヒスベルヒへ行くドイツの汽車は、ドイツ・ポーランド協定によりこの廊下を通過することが許されていたが、その場合は「鎧戸」を下ろさなければならなかった。何と無理な何と智恵のない、平和の永続性を考えない協定であったことか。驚くに堪えない次第である。そこに牢固として抜くべからざる第二次大戦の原因が伏在し顕在している。海を得たポーランド人はこのコリドールの末端にグデニアという完全に人工のみによる軍港を建設したのであり、そこに小巡洋艦、小駆逐艦の数隻を浮かべて楽しんだものである。正に児戯とはかくのごときことを称するのであろう。

▲現在のグデニャ 写真:Wames / Wikimedia Commons

ポーランド陸軍の大演習は多分に宣伝的意義を持っていたから、世界の一等国に対し特にデレガシオン(代表)の派遣を望んだ。日本陸軍としては私をそのデレガシオンに任命した。

各国武官中の最下位の扱いに不満

演習はクラカウとプシェミスルの間で行われた。この付近は第一次大戦においてドイツ、オーストリア軍対ロシア軍が血戦を反復した死闘の古戦場である。この演習の西軍(攻撃軍)は東軍(防禦軍)に対し約三師団を基幹とする戦力をクラカウ東方地区に集中し、逐次東進してやや微弱なる東軍と遭遇戦を行い、次いで軽微な野戦陣地に対する攻撃をもってめでたく終了したのであった。この演習には数連隊の飛行機も参加した。それはフランス式の木製機であった。多数のタンクも姿を見せた。それはやはりフランス式ルノーの十トン以下の軽戦車であった。

▲ルノーFT-17軽戦車 出典: public domain in the United States.(Wikimedia Commons)

もっとも当時それは世界的に大型戦車とされていた。いかなる国でもそうであるごとく、この大演習において外国武官は形式的に華やかな場面だけ見せられるのであって、彼らの野営の実際とか、軍紀方面というような裏面的状態には眼を閉ざされるものである。午餐はA地方の富豪の庭園で、又夕食はB地方の地主の主催する盛宴に招待されるという具合であった。

クラカウ市はポーランドの旧都である。旧ポーランド王国時代、もちろんワルソーがその首都であったが、クラカウこそはポーランドの京都であった。

私どもはクラカウ市長の催す大夜会に招かれた。主賓は英国陸軍大学校長アイアンサイド少将であった。ア少将は六尺近い長身の、しかも少なくも二十五貫以上もあろうかと思われる肥満の大男であった(彼は後に第二次大戦に英国参謀総長として活躍した)。

▲英国陸軍大学校長アイアンサイド少将 写真: War Office(Wikimedia Commons)

ア将軍を主賓の席に据えたのは、彼がデレガシオンとしてこの演習参観のため特派されたからであり、それは当然であった。ところがせっかく日本へもデレガシオンを招待したにもかかわらず来なかったからというわけでもあろうか。

ともかく私の席次は各国武官中の最下位であった。それは先方からみれば、武官としては私が最も遅く着任したものであり、かつ他国では大佐、中佐であるにもかかわらず私は国内的にもあまり古参でもない少佐であったからでもあろう。しかし私の立場からすればそうはいかぬ。ポーランドは日本に対し五大国たるの故をもってわざわざデレガシオンを特派すべく要請し、日本は「遠路の故に」若年といえども、又資格不足なりとするも私をもってデレガシオンたらしむべくポーランド陸軍に正式回答を与えている。すなわち、私はたとえ少佐なりとしても堂々たるデレガシオンの資格を持つものである。少佐なるが故に先方がそれを認めずとするならば、それは「予」に対する侮辱であり、「予」を軽視するものであり、「予」を認めざるものである。

私は案内の将校を通じ私の不満を述べ、「日本デレガシオンの待遇を与えない限り、私は愉快にこの演習の参観という演技を演ずることは出来ない。元来演習は一種ポーランドのデモンストラチア的演劇でもあるはずだから」という風なことを率直に申し述べたのであった。

私の主張は通って、先方は私に英、米、仏の次の席を与えた。少々尻こそばゆい感もないではなかった。それにしても各地を自動車で案内する場合、私は英米人と三人で乗ることになった。私をショツフェールの傍らに乗せるわけにも行かなかったから、私はアイアンサイド英少将、マッケンネー米中佐の中間に座らざるを得なかった。マッケンネー中佐も大男であったから窮屈なこと夥しい。彼らもまた同様にこの窮屈を我慢せざるを得なかった。

第二次大戦においてアイアンサイドは直接我々と戦わなかったが、彼の指導する英軍と私の同僚は戦った。マッケンネー中佐はもちろんマッカーサーと同年輩ぐらいの比較的善良なる好々爺風の男であったから、大佐か少将ぐらいで現役を去ったであろうし、この対戦では東洋方面にも欧州方面にも顔を出さなかったようであった。