「山男たちはどこの世界でも無邪気」

大演習終了後、私どもはウェルフニヤ シレジアを見学することとなった。この上部シレジア地方は旧ドイツ帝国の宝庫であり、ザール地方とともに重工業面においての車の両輪であった。私どもの見学したカトウイツ付近の製鉄工場はカイザーステッテと称した。室蘭日鉄工場ぐらいの規模であったかと考えられる。ただ八幡よりも室蘭よりも広畑よりも価値大なりと感じられたのは、製鉄原料たる鉄鉱、粘結炭のいずれもこの地方から無尽蔵に産出されることであった。ポーランド人は大得意で私どもを案内した。しかし考えてみれば、すべてこれドイツ人の開発によるものであった。それは鴨緑江の大水力発電とも通ずるものがあるのである。

▲現在のシレジア。黄色い線の中は1871年のドイツ帝国におけるシレジア、青い線の中は1740年のプロイセンによる併合前のシレジアの範囲 出典:Wikimedia Commons

私どもはウェリチカの岩塩坑を見た。それはクラカウ市の近郊の麦畑の下にあった。塩脈の厚さ数十メートルもあったであろうか。何百メートルかをエレベーターで下降すると、周囲は「白」一色である。ギドラン種の大型の役馬が営々として働いている。工夫が十字鍬で岩塩を掘りかつ砕いている。坑内に労務者のためのカトリチズムの礼拝堂があったが、キリストの像も岩塩をそのまま彫り抜いて作ったものである。白い塩の上に腰掛が数十脚並んでいた。神像の傍らに永久の聖火が点っていた。

この岩塩は今一度水に溶かし、不純含有物を除却して食塩とするのである。塩を素材とする化学工業もまた一応この手続きをとるものであろう。

それにしてもかかる厚層の岩塩脈が、原野の国、本来海なき国民のため存在することは実に神の摂理という外はない。この辺は太古海底であったのであろうか。今の死海、紅海も天変地異のため衝き上げられ水が蒸発したとすれば、何千、何百メートルの岩塩層が出来るのか。科学者としてはそれを算定し得るであろう。

私どもはクラカウで、往時ポーランド国王であったジックモンドの墓を拝した。それは大きなカテードラ【大聖堂】の地下室に厳粛に収められた寝棺であった。私どもはクラカウ大学をも参観した。それは数百年の歴史を持つ大学である。音楽、絵画に特徴をもつと称せられた。

私どもはカルパーテン北側の行事を終えて、行楽の地ザコパネへ向うこととなった。ザコパネは日光、軽井沢、赤倉を合作したようなポーランド唯一の、又旧オーストリア唯一の行楽地といい得るであろう。ワルソー駐在の富める外国人は、夏はこの地に避暑し、冬またこの地のスキー、スケートを楽しむのであった。ザコパネの中心地に数多くの貸別荘があった。

クラカウを日光とすれば、我々はそこより中禅寺に上らねばならぬ。山はカルパチアであるから登攀道路は傾斜極めて緩かである。山深く入るにつれ杉木立いよいよ密で、約十キロぐらいはほとんど杉、檜、樅の林の中を走るであろう。更に登り行くにつれ樹木の葉末、枝肌に「キリモ(ヤドリギの一種?)」が付着している。霧深く、温度低き深山の象徴であった。頂上近くの比較的平坦な山峡にあるヴィラの町ザコパネを通過し上ること数キロメートル、そこに小さい旧火山口の鏡の湖がある。それをペルスコエ・オーコと呼ぶ。それはこのカルパチアの八、九合目のところにあろうか。それは現在私の住む小林市から二、三里ほどの霧島山麓の「御池」とよく似ている(御池は「神武天皇産湯の池」の意である)

ペルスコエ・オーコ(ペルシャの眼)から数百メートル登れば、この辺におけるカルパチア山系の一つの頂上の上に立ち得るのであるが、私ども一行はその嶺頂を避けて数キロメートル車行し、チェックとポーランドの国境にあるポーランド領の一部落に到着した。山峡の小川一重へだてて対岸はチェヒー(チェック)の部落である。ところが面白いことには村人の風俗も習慣も何ら異なるところがない。男は青い長靴などを穿ち、ソーコリ団体(山岳地帯の体育団体、愛国団体)員の象徴としての鷹の羽を帽子に挿し、娘たちは赤、白、青などの縦縞模様のスカートを短くはき、朝鮮婦人よりもやや長い短衣を着て赤い半長靴を履いている。

我々一行を慰安する目的で、若い青年男女十組ほどの「山舞踏」が演じられた。村の青年のその道の達人連による笛、鉦、小太鼓、ヴァイオリン、手風琴をもってするオーケストラが演奏された。

山男たちはどこの世界でも無邪気であり、呑気である。彼らは愉快に男女手をとり、男は女を次々に他に渡すような一種の山バレーを私どもに見せてくれたのであった。

この集団の内で特に踊りも上手な美男美女の一組があった。美女の方はポーランド人であり、美男の方はチェックである。この山中の細い小川は厳たる地理的乃至政治的国境であるが、この付近の住民にはポーランド、チェックの区別がないのである。元来語源を一にするスラブ民族であり、言語も何れかが方言というに過ぎない。彼らの父母は何れもオーストリア、ハンガリー大帝国の統治の下にドイツ語民族として学問をしたのであり、第一次大戦にはフランツ・ヨゼフ皇帝に忠誠を誓って出征したのであった。今あらためて国籍を異にすること自体、平和を乱されたものと考えているであろう。

彼ら美男美女は人生最高の快楽たる結婚前夜の婚約の一対であった。

この夜、ザコパネ別荘地の有力者の名において私どもに対する歓迎のバールが催された。時未だ盛夏でもなかったから避暑客は小数であったであろうに、クラカウの素封家、カトウイツの実業家の家庭から多くの参加者があってこのバールは盛会であった。これらの参加者の多くは例外なく若い婚期の近づいた、又はやや婚期を逸したかのごとき妙齢の婦人を伴っていた。それが西洋の結婚への重大経路である。大抵の結婚は大なり小なりこのような舞踏を伴う「集り」を契機として進展する。日本の娘には仲介人がいる。西洋の娘にもダンスなる仲介人がいる。

カトウイツから父に伴われた二人の姉妹が参会した。名はレンスキーであり、レンスカであった。父は鉄工業に従事する実業家であり、純ドイツ教育を受けた紳士である。二人の娘も小学時代はドイツ語で育ったので、彼及び彼女たちはポーランド語よりもドイツ語をむしろ自由に話した。

私はこの二人の娘を相手に数回踊った。これが縁となり、私はこの家庭と交際した。冬季ワルソーのオペラ・シーズンには一再ならず、この二人の娘は陸軍少佐である兄に伴われて、私の公館を訪問した。私は彼らを饗応することを惜しまなかった。ただ残念なことには、私の好まぬ、そして私の自尊心を傷つける「マダム・バタフライ」を彼及び彼女らは愛好したのであった。