時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じて経験し、人生を学んだひと夏の物語です。
小学生最後の夏休みを東北で満喫していた孫に祖父が手渡したのは、東北プロレスのチケット。ひょんなことから生まれて初めてプロレスを見にいくこととなったアンドレ。大会当日、昼寝をしていると宣伝カーの音によって起こされた――。
これって本当にプロレスの会場なの?
その音は今晩、自分が見にいくプロレスの大会の宣伝を流す車から出ていた。東京じゃ走っているところを一度も見たことがないから、これってけっこう貴重なのかも。
思い立ったぼくは、縁側から跳ね起きると「じいちゃん、自転車借りるね!」と言いながら飛び乗った。そして普通の車よりゆっくり走るそのあとを追いかけた。
同じアナウンスを繰り返し流しながら、車は走るというよりも歩くような調子で進む。周りを見渡すと、ほとんど人の姿がない。
この声は、誰に聞かせたくて流しているんだろう。だいたい、普段でさえ人の数が少ないこの町でプロレスをやって、集まるものなのか。
車はまんべんなく町中を歩き回り、体育館の駐車場へ停まった。少し離れたところからその様子を眺めていると、ジャージーを着た坊主頭のお兄さんが降りてきた。
ぼくは、あれっ?となった。プロレスの会社だから、車も屈強な体つきの怖そうな人が乗るものだと思っていたからだ。よくよく考えたら、試合に出る選手が運転することなんてしないか。
その若い人が体育館の中へ入っていったところで、ぼくの追跡活動は終了となった。いったん家に戻り、そろそろあたりが暗くなりかけ出した夕方6時頃、再び会場まで自転車でいく。
じいちゃんは「車で送り迎えしてやる」と言ってくれたけど、自転車さえあれば一人で大丈夫。木造の古めかしい体育館の入り口前に着くとどこから集まったのか、けっこうな人数でにぎわっていた。
もう開場していて、吸い込まれるように続々と館内へ入っていく。入り口には筆圧が高そうな文字で「東北プロレス」と縦書きの看板がかけられ、そのすぐ横に机一つ分の当日券売り場らしきものが設置されている。わずかではあるが、列もできていた。
そこへ座ってチケットとお金をテキパキとさばいていたメガネの人はどう見ても選手ではなく、スタッフさんのようだった。その横をぼくが通りすぎる瞬間、軽いジョークのような感じで「キミ、大きいねえ。ウチに入らない?」と声をかけてきた。
ぼくがまだ小学生だと知ったら、さぞかし驚くだろうな。そう頭の中でつぶやくと、普段はあまりいい思いをしないセリフなのに、この時ばかりはおかしくてニヤニヤしてしまった。
中へ入ると、広々とした館内の中央にデンとリングがあぐらをかいていた。異様なまでの存在感が伝わってくる。その次にえっ!?と思ったのは、客席だ。
そこには、イスがなかった。みんな、青いシートが敷かれた四方に地べた座りをしている。これって、本当にプロレスの会場なのか?
テレビでたまに見るプロレス中継ではイスが並べられ、お客が座っていた。なのに今、目の前へ広がっている風景はまるでピクニックに来たかのようじゃないか。
小さい子はシートの上で横になり、ゴロゴロと転がっていた。中学生、高校生らしきお兄さんもいれば、ぼくのじいちゃん、ばあちゃんと同じ年ぐらいの人もエアコンのない館内で団扇を仰ぎながら開始を待つ。
シートが敷かれた後方の一角には長テーブルが3脚並べられていて、その上にマスクやTシャツ、パンフレットから何かのCD、人形に小物入れなどたくさんのグッズが展示されている。どうやら売店のようだ。
その前にはけっこうな人だかりができていて、対面するように何人かのプロレスラーが座りグッズを買ったファンへサインを入れている。素顔の選手に、マスクマンも…あ、あの黒覆面の人、チケットにも印刷されていた。
すぐに少しだけ視線を落とし、机の上のTシャツに目をやると名前があった。そうだ、グレート・タスケだ! 数年前にマスクを被ったまま岩手県の選挙に出て、当選が話題になったんだ。
「これがわたくしの素顔なんです!! ほら、この通り…取れない! 取れない!」
選挙運動中の様子をテレビで見た時、自分でマスクに手をかけながらそう言っていたので、呆れてしまったのを思い出した。こんな人が受かるわけがないと笑ったら当選し、僕が大人になる頃の日本の未来は大丈夫なんだろうかと不安になった。
当選後もテレビにちょくちょく出ていたけれど、プロレスも続けているんだ。これぐらいの有名人だったら、ファンではないぼくでも知ってて当然だ。
そのタスケさんが目の前に…グッズを買う気はなかったけれど、ぼくはあまり深く考えることなく近づいていた。こちらから声をかけたわけではないのに、Tシャツへ走らせるサインペンがピタッと止まる。
「ん? なんだ、誰か選手が立っているのかと思ったよ。キミさあ、大きいねえ! プロレスラーになればいいのに。ちょうどいい、ウチに入らない?」
ついさっき、入り口のチケット売り場で言われたのと同じことを、あの有名人が口にしている。それだけで不思議な気分になった。
でも、こういうのは今に始まったことではないからまったく気にもとめず、いつものように「は…い」と空返事をした。するとタスケさんはいきなり席を立つやぼくの方へと近づいてきて「よーし、よしよし、じゃあ決まりだな!」と手を叩いた。
ぼくは何が決まったなのか、理解できずにいた。こっちはひとことも「プロレスラーになりたいんです。入門させてください」なんて言っていないんだ。
リアクションをしかねるぼくにかまうことなく、目の前の有名人は浮かれたように続ける。
「じゃあ、詳しいことはあとで話すから、今日の試合が終わったら帰る前にまたここへ寄ってね」
そう言った数秒後には、売り物のマスクをしげしげと見つめるおじいさんに熱弁を振るっていた。
「このマスクはホンモノだからね。本来なら10万円するけど、本日に限り特別価格で3万円! サインも入れちゃうよ」
しばらく考えていたおじいさんが「あー、マスカラスのマスクって売ってないんか?」と返すと、タスケさんはわざとらしいほどのズッコケポーズをとったあとに「まいったなー」という目をした。
さすがにタスケさんではない、ほかの人の覆面を欲しいなんて言うのはまずいよなあ。それでも売店に立つほかの選手たちはその様子を見て爆笑している。殴ったり蹴ったりするプロレス会場でも、笑いって起こるものなんだ。
それにしても、初対面の客に対し「今日からプロレスラーを目指せ」なんていうのは、ジョークに決まっている。でも万が一、本気だとしたら…。