プロレスファンにはおなじみの写真家・原悦生は、“アントニオ猪木を半世紀以上撮り続けた男”だ。文章の力で猪木を伝えたのが村松友視、言霊の力で猪木を伝えたのが古舘伊知郎だとすると、瞬間瞬間の真実を切り取る写真で猪木を伝え続けたのは原だった。
2022年10月、アントニオ猪木が亡くなった。そのとき、猪木ファンの拠り所になったのは、猪木が他界する半年前に発表された原の著書『猪木』(辰巳出版)である。2022年のプロレス関連書籍のなかで、最も我々の心を捕らえた一冊。同書の帯には「“闘魂”を50年撮り続けた写真家の記憶と記録 アントニオ猪木推薦」の文字が踊る。
現在の原の心境はどうなのだろう? 2月12日まで開催中の写真展「猪木という現象」の会場・書泉グランデへ、彼の話を伺うべく訪れた。
猪木さんの死を少しずつ感じてきている
――猪木さんが亡くなった直後、原さんがご出演されたラジオ番組『真夜中のハーリー&レイス』(ラジオ日本)を拝聴したんですが、あのとき原さんは「猪木さんが亡くなった実感が湧かない」とおっしゃっていました。あれから3カ月以上が経った今、いかがですか?
原悦生(以下、原) ここへきて、ちょっと感じてますね。10月に猪木さんが亡くなって、お葬式も終わって、そのままワールドカップの取材でカタールに行き、クリスマス前に日本に帰ってきて。その後、友だちが追悼番組を録ったDVDを送ってくれたんだけど、まだ1本も見てないです。そのまま置いてあります。
――それは見れないからでしょうか?
原 いや、見れないっていうより、見なくても感じはわかるっていうのもあるし、今はあんまり見ようとはしないです。
――親しい人が亡くなったあと、お葬式に行かなくてもいいかな?って気持ちになることもありますよね。なぜなら、自分の中にいるから。
原 お通夜にもお葬式にも行きましたけど、どうしてもっていう感じでは……。でも、亡くなった日の夜は、さすがに顔を見に行こうと思いました。というのも「亡くなりました」と報じるテレビを見ても、友だちから電話で聞かされたとしても、顔を見ないと納得しないというのがあるので。でも、その日の猪木さんは、ただ寝てるような感じでした。
――じゃあ、年が明けて少しずつ実感が湧いてきた感じですか?
原 そうですね。「ああ、いないんだな」っていうのは少し感じます。でもそんな、“猪木ロス”まではいってないかもしれない。
――我々もそうなんです。猪木さんの元気な姿を今もテレビで頻繁に見るから、「いなくなっちゃった」というのがあまりないんです。実際は、いないんですけども。
原 うん、そうなんですよね。
――著書『猪木』を拝読させていただきましたが、原さんの自伝のような内容が、そのまま猪木さんの外伝のようになっていました。つまり、原さんの半生もすごいものなのだな、という。猪木さんと付き合い続け、大変に思うことはありましたか?
原 大変に思うことはないです。そういうのはないですね。猪木さんが危ない国へ行くときに声をかけられたとしても、行く行かないはこっちの自由だし(笑)。「どう?」っていうのはありますけど、自分の都合で行けないときは「行けない」で別に済むんで。
――そのへん、猪木さん優しいですからね。
原 優しいです、はい。
東京スポーツで読んだ“攻める猪木”に共鳴した
――そもそも、原さんはなぜ猪木さんに惹かれていったのでしょうか? 最初は、日本プロレス時代の力道山がお好きだったんですよね。
原 力道山はテレビで見てましたね。その後、ジャイアント馬場を追いかけて上がってくるあたりからアントニオ猪木に注目して。あと、汚名を着せられて日本プロレスを追放されたとき。追放されるだけだったら心は動かなかったけど、追放されてすぐ自分の新団体を作るところに、共鳴する部分があったんだと思います。
――当時の常識だと、ヒロ・マツダさんみたいに単身で海外へ行きそうなところを。
原 アメリカに行ってアメリカで試合をするというのが、ごく普通のパターンでした。その前に東京プロレスという団体もありましたけど、普通に考えたらあの時代は新団体がうまくいく状況じゃないから「えっ、やるんだ?」と思って。別に応援すると言っても、(当時の新日本プロレスは)テレビ中継がないから、東京スポーツに出た記事を読んでいたくらいなんですけど。でも惹かれましたね、かなり。
――“攻める猪木”に惹かれたということですよね。
原 そうですね。攻めるとか、体制に反発するとか。当時、学生運動があったけど、別にそれが好きだったわけでもなく、反骨というか、向かっていく姿に惹かれましたね。
――若い頃の猪木さんの写真って、もう見るからにヤンチャですもんね(笑)。
原 ハハハ。ギラギラしてますよね(笑)。
――後年のモハメド・アリ戦にしろ、参院選への出馬にしろ、なぜそういう行動を起こしたかというと、やはり強烈にジャイアント馬場の存在が大きかったのかなという気がします。
原 そうでしょうね、ジャイアント馬場の存在。あと、世間がプロレスを見る目とボクシングを見る目が違う……というところでしょうね。だから、ボクシングと闘った。しかもボクシングのトップで、ただのボクサーじゃないアリと。
――まさに、新日が標榜した「キング・オブ・スポーツ」ですよね。そんな猪木さんと初めてご挨拶されたのは、原さんがまだ大学生で21歳の頃。ちょうど一回り違いで早生まれの猪木さんは34歳でした。若い頃はギラギラしていた猪木さんが79歳になるまでお付き合いされたわけですが、印象は変わっていきましたか?
原 若い頃はギラギラしてて怖かったんですよ。当時のレスラーで、藤波辰爾とかは「無用意に近づけない」と言ってました。彼はレスラーだから殴られたりも当然するし、私は素人だから絶対に殴られないんですけど(笑)。だから、藤波は「怖い」と言ってましたね。でも、蝶野、武藤、橋本の世代になると、猪木さんと横柄にしゃべってますよね(笑)。
――息子世代よりも孫世代のほうが堂々としている(笑)。
原 そう、孫世代のほうが自由が効くんですよね。
――長州力でさえ、「最後まで猪木さんの目は見られなかった」と言っていました。
原 いや、怖いでしょう。アントニオ猪木は何するかわからないから、本当に怖いと思いますよ。