時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。
プロレスラーになるつもりなどなかったのに、グレート・タスケの「東北には難しい地名の町や村がたくさんある」という言葉にグラリと来たアンドレは、祖父・祖母や両親には内緒で東北プロレスの巡業へ加わる。翌朝、待ち合わせ場所に現れたのは“練習生”たちが乗った小さなバンだった。
木造の体育館がプロレス会場へと変身
ぎゅうぎゅう詰めの車中で体を動かせずじっとしているのは苦痛だったが、もう引き返せない。途中、何度かトイレ休憩をとりつつ、沈黙のバンはひたすら北へと向かう。
「寝られる時に寝ておいた方がいいよ」
ぼくと同じ練習生と思われるお兄さんの一人が、そうささやいてきた。敬語で「いいですよ」と言わなかったのは、年齢に限らず先に入った方が偉いって決まっているのだろう。今まで10歳近くも上の人から“さん”づけで呼ばれるのが当たり前だったので、この方があれ?と思ってしまうのだ。
どこまでいっても山と緑で彩られた田舎道をバンは走る。ぼくから話しかけられるような雰囲気ではないため、振られたらそれに対し答えるだけだ。
その中で、先ほどとは別の先輩から「キミさ、トシいくつ?」と聞かれた。来たか。ここで本当のことを言ったら帰されてしまうと思ったぼくは、何食わぬ顔で「ハタチです」と答えた。
成人にしておいた方が、いろいろと都合がいいと思ったからだ。この時ばかりは、ごまかしてもまったく不自然とは映らない185cmに感謝した。
これから夏休みの間、ぼくはどこへいっても20歳の男でいなければならない。あ、お酒を飲まされたらどうしよう…プロレスラーって、ウソみたいに飲むんだろうな。
そんなことを考えているうち、車はようやく千厩の町へ到着。ぼくは、持ち物の中に小さいデジカメを入れておいた。これからいく先々で、その地名が書かれているものを撮影するためだ。
道路標識でも駅でも何かの看板でもいい。東北の難しい地名のところへ本当にいった証を残しておきたかった。
この会場には、壁に「千厩町体育館」と刻まれていた。近くまでいき、カメラを構えると後方から「何やってんだ!」と怒声が聞こえてきた。
「リングトラックはもう到着しているぞ。早く運べよ!」
昨日の夜、選手たちで撤収するところを見ていたおかげで、すぐに理解できた。これから手分けして設営するんだ。でも…写真ぐらい撮ったっていいじゃないか。
先輩やスタッフの人たちの目が届かぬところで、カメラを構えなければならないのか。いや、たとえそのたびにしかられても、ぼくの本当の目的はこっちなんだ。絶対に続けるぞ。
体育館の中へ入ると、すでにリングの鉄骨部分は組み立てられていた。そこへマットを敷き、鉄柱を立ててロープを張る。その作業が延々と続く。
勝手のわからぬぼくは流れ作業的に、トラックの荷台から降ろされた部品を担いで館内へと持っていく。それを何往復もするのだ。
体力には自信があったので、これぐらいは…と思っていたが、炎天下の外とサウナのように蒸す体育館の中をいったり来たりするとさすがにキツい。ほかの人たちは手慣れたものでスイスイと運んでいく。
1時間ほどでリングが完成。でも休む時間はなかった。続いてブルーシートを敷く作業だ。
四方に巨大なシートを敷きつめると、今度は設置した机の上に商品を並べる。グッズ売り場の完成だ。ガランとしていた古めかしい木造の体育館が、魔法をかけられたようにプロレス会場へと変身した。
それが終わる頃、選手バスが到着。バンに乗っていたグループとは明らかに違うオーラを漂わせた主力の選手たちが、ぞろぞろと入ってきた。いっせいに「お疲れ様です!」と挨拶が始まったので、ぼくも見よう見まねであとに続く。
「おー、ちゃんと来たかあ。感心、感心。まあ、今日から頑張ってよ!」
ぼくを見つけたタスケさんが、やさしい言葉をかけてくれた。でも、一緒に歩いていた運命さんは眉間にシワを寄せながらこっちをジーッと見ている。そして「……社長、あれは?」と聞いた。
バンの中で宇佐川さんもそう呼んでいたが、タスケさんは東北プロレスの社長も務めているのか。
「あれ? 言ってなかったけ? いやー、昨日の楢葉へ見に来た子でさあ、デカいから入門しないかって誘ったんだよ。本人もやる気満々みたいで、即答でプロレスラーになりたいって言うからさ、今日から巡業に合流させたのよ」
かなり事実がわい曲されていた。でも、それに対し怒るよりも先に、運命さんへぼくのことがまったく伝わっていなかった事実に衝撃を受けた。タスケさんって、政治家だよな…なのに、こんないい加減な人なのか?
「キミ、年齢は?」
運命さんの質問に一瞬、口ごもる。この人の目で見られると、ごまかしても見透かされているような気がしたからだ。だけど、今さら自分が小学生だなんて言えない。
「安藤レイジ! ……ハ、ハタチです。よろしくお願いします!!」
その場の勢いでこの場をやり済まそうとする。父さんがよく言っていた「今の世の中はな、声の大きいやつの意見の方が正しいってなっちゃうんだよ」というぼやきを思い出した。
会社の会議とかで、どんなに正しい意見やいいアイデアを出しても、そのあとに大声で言った方が勢いで採用されるらしい。控えめな性格の父さんは、そのまま押しきられてしまうのだろう。
それを憶えていたから、大声を張りあげた。なんとか運命さんもぼくが成人だと思ったようだ。そして、選手&スタッフ全員に招集がかけられた。