我が国の皇室は一度も途切れることなく、世襲で続いてきた。世界的に見ても奇跡のような出来事だ。だが、近年になり「このままでは皇族が一人もいなくなる」との危機が訪れ、当時の小泉純一郎内閣は有識者会議を召集した。そこで出た結論が「女系天皇容認」である。歴史学者・倉山満氏が、その当時の様子を振り返ります。
※本記事は、倉山満:著『決定版 皇室論 -日本の歴史を守る方法-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
このままでは皇室が絶えることになるという危機感
我が国の皇室は、一度も途切れることなく、世襲で続いてきました。絶対に子どもが生まれる技術があるわけでもないのに、奇跡のような出来事です。この奇跡を今後も続けていこう、それにはどうすればよいか、と考えるのが大事なことです。
小泉純一郎内閣の時代には「このままでは皇族が一人もいなくなる!」との危機感により、有識者会議が召集されました。そして出た結論が「女系天皇容認」です。今まで日本の皇室は一度の例外もなく男系継承を続けてきましたが「今後は女系も容認しよう」との結論となったのです。
それと時を同じくして、悠仁(ひさひと)殿下がお生まれになり、神武天皇の伝説以来の日本の歴史はつながりました。その結果「女系容認」は見送られました。これには、当時の安倍晋三官房長官の説得がありました。
ただし、一本の糸でつながっているにすぎません。極めて不安定な状況です。では、どこからこの不安定な状況が生まれたのでしょうか。
昭和22(1947)年10月14日、11宮家51人(内男子は26人)の臣籍降下が行われました。敗戦に伴う皇室財産の縮小で、従来規模の宮家の維持が財政的に不可能とされたのです。
その結果、昭和天皇の弟君を当主とする秩父宮家・高松宮家・三笠宮家のみを残し、伏見宮系統の皇族の方々は臣籍降下となったのです。伏見宮系統とは、伏見・閑院・山階(やましな)・北白川・梨本・久邇(くに)・賀陽(かや)・東伏見・朝香・東久邇・竹田の11宮家です。
昭和天皇は二人の男の子に恵まれ、上皇陛下と常陸宮殿下がご健在です。常陸宮殿下は現在87歳となりますが、お子様には恵まれず、常陸宮家の断絶は確定的です。
昭和34(1959)年に、皇太子殿下(現在の上皇陛下)が正田美智子さん(現在の皇太后陛下)とご結婚、翌年に徳仁親王殿下(現在の天皇陛下)、昭和40(1965)年に文仁(ふみひと)親王(現在の秋篠宮殿下)と二人の男の子に恵まれました。
しかし、秋篠宮殿下を最後に、皇室の直系にはながらく男の子がお生まれになりませんでした。そして、秩父・高松・三笠の三宮家にもお生まれになりません。
秩父宮家と高松宮家は男の子が生まれず、断絶。三笠宮家には男子がおらず、彬子(あきこ)女王と瑶子女王がご結婚されれば皇室を離脱されることになるので、三笠宮家は途絶えることとなります。
平成2(1990)年に、文仁親王と川嶋紀子さんのご結婚があって秋篠宮家が創設され、平成5年に皇太子徳仁親王と小和田雅子さんがご成婚されます。
秋篠宮家では平成3年に眞子内親王、6年に佳子内親王のご誕生がありました。
20世紀から世紀も変わろうという時期、秋篠宮には眞子内親王、佳子内親王のお二人がいらっしゃったものの男子はおらず、その時点で皇太子徳仁親王におかれてはご自身40歳、雅子皇太子妃殿下37歳の時期でお子様はまだいらっしゃらずにいました。
これは皇室が絶えることになるぞ、という危機感はこの頃に高まり始めたのです。