敗戦後、日本が共産主義国家との分断国家にならず、象徴天皇を中心とした民主国家として再生することができた。その陰には当時は「未熟なもの」として扱われた小野寺信(まこと)による“誠実なインテリジェンス”があった。産経新聞論説委員の岡部伸氏がスウェーデン王室とのエピソードとともに紹介します。

※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

スウェーデン国王が連合国との仲介に乗り出す

1945年7月中旬、ドイツのポツダムで開催される首脳会談に出席するため、大西洋をアメリカ海軍の重巡洋艦「オーガスタ」で航行していたトルーマン大統領に、ワシントンのジョセフ・グルー国務次官から、同行していたジェームズ・バーンズ国務長官を通じて機密電報が届けられました。

1945年7月6日、駐スウェーデン公使、ジョンソンからバーンズ国務長官に宛てた次の電報でした。

▲1945年7月6日、ジョンソン駐スウェーデン米公使からバーンズ国務長官に宛てた電報(米国立公文書館所蔵)

「プリンス・カール・ベルナドットは、小野寺少将から夕食の招待を受け、小野寺少将は『日本は敗北をすでに承知し、時期が来れば、スウェーデン国王に直接連絡を取り、連合国への接触を要請する』と語った。国王は連合国に連絡を取る意向に傾いている。小野寺は、天皇の地位が降伏後も保持される条件だけを述べ、他の条件は語らなかった」

この電報でも「国王は連合国に連絡を取る意向に傾いている」と記され、小野寺からの要請に、スウェーデン国王が連合国との仲介に乗り出すことを承諾したことを示唆しています。

先の電報では「小野寺が喜ぶだろう」とも述べており、国王は連合国、つまり英米に日本が戦争を終える(降伏の)意思を伝えたと考えるのが合理的でしょう。また終戦にあたり、日本が最後に求めた国体護持(皇室の存続)を、小野寺が米英に伝えたことが示されています。

ベルリン郊外ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿に米英ソの首脳が集まり、会談2日目の7月18日午後3時、スターリン首相は、訪問してきたトルーマン大統領に、近衛特使派遣を要請する天皇からの親書を見せました。

そして「日本が和平仲介の特使受け入れを求め、『降伏』の意思を得た」と伝え、「拒否か、曖昧な回答か、完全無視か」を尋ねました。

トルーマン大統領は「曖昧な回答」を支持して反論しました。「日本の降伏意思については、こちらもスウェーデンから情報を得ている」。その際、小野寺の電報を持ちだし、スターリン首相に日本が皇室の存続を望んでいることを示しました。

皇室を抹殺したい共産主義者のスターリン首相は「日本の言は信用できない」と一蹴しましたが、会議では最終的に米国がソ連の反対を押し切り、皇室の残置を認めさせました。「米英の外交的勝利」の背景の一つに小野寺の和平工作があったと考えていいかもしれません。

▲当時の鈴木貫太郎内閣 出典:ウィキメディア・コモンズ

皇室を保持できるヒントを流していた米国

小野寺からの働きかけを受けて、グスタフ国王は日本のために何をしたのでしょうか。
『高松宮日記』には、スウェーデン国王が昭和天皇に親愛の情を示す記述があります。第八巻の1946年9月10日の欄に国王と小野寺の名前が出てきます。

「午後、スエーデン武官だった小野寺陸軍少将、よし様のお話にて来れリ。トルネル陸軍大将(侍従武官長)から帰る前(1946年1月19日)に特に面会を求められて、『戦況不利になってから殊に日本皇室に対して同情を以て見ていたが(老年の)国王から(年若き)天皇に敬意を表するお気持ちを伝えられたい』とのことだったので、私から陛下に申し上げてくれとのことなり」

▲スウェーデン国王グスタフ5世 出典:ウィキメディア・コモンズ

国王が、戦況不利になって日本皇室に同情したというならば、日本の皇室を救う、つまり国体護持に関する何かしらの行動を取ったのではないでしょうか。さらに言うなら、日本の皇室を存続させようとスウェーデン国王から依頼を受けた英王室が、米政府に働きかけた可能性はないでしょうか。

当時、アジアへの共産主義拡大を懸念して、戦争終結を望んでいたのは米国でした。米国はソ連参戦前に戦争を終了させようと、非公式に5月から『ザカリアス放送』(米国が戦時中に行っていた、短波ラジオによる対日プロパガンダ放送)で皇室を保持できるヒントを流しています。

しかし、日本の中枢はそれを「謀略」と受け止め、正視しませんでした。「天皇中心主義を認める」という米軍の意向が、英王室を通じて昭和天皇に伝えられれば、国体護持を確信できる「インテリジェンス」となったことでしょう。