“生きるため”に海を渡った500年前の日本人たち
戦国時代の日本は治安も悪化し、経済的にも厳しい社会情勢だったため、多くの日本人がリスクを抱えながらも海を渡っています。メインの移住先は東南アジアになり、各地に日本人集落が形成されました。そのなかでも、現在のタイ王国にあたるアユタヤ朝に築かれた日本人街では、数千人の日本人が生活していたそうです。
意外な事実になりますが、豊臣秀吉の天下統一後、また江戸時代以降も、海外に渡る日本人はさらに増え続けました。その理由とはなんだったのでしょうか?
関ヶ原の戦いや大坂の陣が終わり、日本が平和になったことで、戦を職業としていた兵士たちが仕事を失ったからです。織田信長から始まる「兵農分離」は、戦だけを専門にする兵士たちを大量に生み出してしまいました。そのため海外に出掛けていき「傭兵」として活躍したのです。
激しい戦闘にも慣れ、鉄砲も扱える日本人傭兵たちが東南アジアに流出したことで、現地の状況は一変します。当時は大航海時代ですから、ヨーロッパ各国が東南アジアの物品を求めて、各地に進出を強めていました。ヨーロッパに対抗するため、現地の東南アジア諸国に雇われた日本人もいれば、逆に東南アジアでの勢力拡大を目指すオランダやイギリスに雇われる日本人傭兵もいました。
最も有名な日本人傭兵は、山田長政になるでしょう。豊臣秀吉が天下統一を果たした1590年頃、長政は駿河国(現在の静岡県沼津市)に生まれます。1611年頃、朱印船に乗り込んだ長政はアユタヤ朝に向かい、現地の日本人傭兵部隊に加わりました。大航海時代のアユタヤ朝は、世界の貿易ネットワークの拠点として繁栄する一方、国内外の紛争が頻発したため、日本人傭兵は貴重な戦力として重宝されました。
大航海時代の勝者であったスペインは、さらなる貿易拡大を目指すため、アユタヤ朝への侵攻を計画します。アユタヤ朝のソンタム王は日本人傭兵で構成された軍隊を組織し、スペインの撃退を命じます。この戦いで活躍したのが長政になります。
1621年、長政はスペインによる侵攻を防ぐことに成功します。アユタヤ朝の傭兵隊長に昇格し、また地方の知事も務め上げたのです。しかし1630年、アユタヤ朝の王位継承をめぐる内紛に巻き込まれ、暗殺されてしまいました。このときアユタヤ朝にあった日本人街も焼き払われています。
生活の場所を失った人々は日本には帰国できず、東南アジア各地に点在する別の日本人集落に逃げ込んだと考えられます。このとき江戸幕府は「鎖国」だったためです。
現在はフィリピンの領土であるマニラですが、江戸時代はスペインの支配下でした。マニラを管理するスペイン人の責任者は、江戸幕府にこのような相談をしています。「マニラにある日本人集落の傭兵が暴動を起こして制御不能である。彼らが日本に戻れるよう引き取ってほしい」。スペインの要望に対して、幕府はこう返答します。「我々幕府は一切関与しない。現地の法律に基づいて対処してほしい」というものでした。
傭兵たちが帰ってくれば、日本国内の治安が悪化するため、幕府としてもできる限り関わりたくありませんでした。幕府による鎖国政策の背景には、キリスト教の流入だけではなく、海外にいる日本人の帰国を防ぐという目的もあったのです。
世界で需要があった日本人傭兵
長政とは直接関係ありませんが、日本人傭兵による象徴的な出来事をもう1つ紹介させてください。1632年に起きたアンボイナ事件です。
東南アジアでの勢力争いのため、当時のイギリスとオランダは激しい対立を繰り返していました。現在のインドネシアにあるモルッカ諸島には、当時オランダの貿易拠点がありました。イギリスは日本人傭兵を雇って貿易拠点に偵察をかけたのですが、オランダ側に捕まってしまいます。拘束した傭兵からの自白で、イギリスがオランダの拠点を攻撃する計画が判明したのです。
計画を知ったオランダは、イギリスの拠点を襲撃。勝利したオランダは、イギリスに雇われた日本人9人を処刑しています。このときオランダ側も日本人傭兵を雇っていたため、日本人同士が戦ったという記録が残っています。
江戸時代の中期になると、国内事情も落ち着いてきたため、海外に渡る日本人は少なくなります。東南アジアに住む日本人も少なくなり、最終的には現地に同化していったと考えられます。日本人傭兵においても、大砲など大型の遠距離武器が導入されるようになったため、徐々に需要がなくなっていきました。
約500年前、多くの日本人が“生きるため”に海を渡りました。現代の日本においてもさまざまな事情があると思いますが、多くの日本人が母国を離れようとしています。そのなかには、本当ならば自分の生まれ育った日本や故郷で生活したい、と望む人もいるでしょう。
自分たちが愛する場所で、将来に希望を抱きながら安心して生活できる社会を作ることが、政治の仕事ではないでしょうか。