時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。

【前回までのあらすじ】
東北プロレスではマスクを被って観戦するファンがよく見られる。セコンドとして動き回っていると選手なのかお客さんなのか見分けがつかないことがあり、アンドレは一般の観客をタスケだと思って謝ったため、笑われてしまった。

裸にマスクでシャワーを浴びるタスケさん

ひとり落ち込みつつ、試合を終えたタスケさんを控室まで誘導する。スポーツセンターだけあって、この日はシャワー設備がついていた。

「夏はシャワーがないと大変だよなあ」

ぼくに聞かせるつもりでつぶやいたのか、それとも独り言なのか、そう言いながらシャワー室へ入っていったタスケさんは…試合コスチュームもリングシューズも脱いで全裸になりながら、覆面だけは被ったままだった。もう、お客さんは誰も見ていないのに、なぜ素顔に戻らないのだろう。

お湯の流れる音が止まってしばらくすると、タスケさんはやっぱり裸にマスクだけ被った姿で出てきた。ぼくの表情から明らかな驚きを察知すると「アンドレ、頭を洗うと気持ちいいよなあ!」と、わざとらしく大声で言いながら後頭部あたりの覆面のヒモをかきあげた。

▲裸にマスクでシャワーを浴びるタスケさん イラスト:榎本タイキ

ファンが見ていないところでもマスクを被ったままなのもすごいが、そのヒモにシャンプーをつけて髪を洗った気分になれる精神構造には、頭の中で密かに突っ込むことさえ忘れて感心する以外になかった。タスケさんが選挙へ出馬した時にやっていた「これがわたくしの素顔なんです。取れない! 取れない!」の場面を思い出したぼくは、笑いをこらえるのに必死だった。

盛岡へと戻るバン。僕は運転中の宇佐川さんに聞いてみた。

「宇佐川さん、タスケさんがシャワーを浴びる時もマスクを被ったままだったんですけど、素顔を見たことってありますか?」

「素顔? あれが素顔だろ」

「いや、そうじゃなくて…」

「何がそうじゃないだよ。社長が素顔だって言ってんだから素顔だと思え」

「はあ…」

「バカ、おまえはガキだなあ。あれをマスクだって言ったら、面白くもなんともないだろ? あくまでも素顔だって言い張るから面白いんじゃないか。

社長が選挙に出た時のことを思い出してみろ。これが素顔だって言うたびにテレビや週刊誌がとりあげていたじゃん。まあ、おまえもそのうちわかるようになるよ。ファンが見ていないところでもマスクを脱がないっていう社長の姿勢が、いかにすごいかを――」