妻を持ち子どもをつくることは断念した

花田は「国内主幹」として活躍したあと、退官しましたが、生涯独身を貫きました。退官間近になってから、花田の口からようやく生涯独身を通した理由について聞くことができました。その理由そのものが内調設立の目的と表裏一体のもので、知られざる内調の活動の本質を物語っています。

内調誕生当時の日本の世情を振り返ってみましょう。

  • 1945(昭和20)年8月15日、終戦
  • 1947(昭和22)年、日本共産党主導で革命実現のための二・一ゼネスト計画
  • 同、GHQがゼネスト中止命令
  • 5月3日、日本国憲法が施行
  • 1948(昭和23)年12月20日、国営企業の争議権を禁止した公労法公布
  • 1949(昭和24)年7月、ダグラス・マッカーサーが「日本は共産主義阻止の防壁」と演説
  • 10月、中華人民共和国成立を宣言
  • 同、毛沢東が国家主席に就任
  • 1950(昭和25五)年6月2日、朝鮮戦争勃発〈突然、中共軍も参戦。1953(昭和28)年7月27日、板門店(パンムンジョム)で休戦協定が締結されるまで3年間続いた〉
  • 1951(昭和26)年9月、日米安保条約締結
  • 10月、日本共産党が五全協で「武装闘争」開始

このような国際情勢のなか、1952(昭和27)年4月9日に内閣総理大臣官房調査室として内調が誕生しました。

▲内閣情報調査室がある内閣府庁舎 写真:Yuukokusya / Wikimedia Commons

当時、日米にとって最大の課題が「日本の赤化工作の防止」であったことは周知の事実です。なかでも、アメリカが最も懸念し、日本政府に期待していたのが、ソビエトおよび中国から帰還した工作員の監視でした。

終戦直後のGHQは、民主化の美名のもとに「日本弱体化政策」を推進していました。その一環として日本共産党員を利用し、マスコミをはじめ、政・財・官の各界にフラクションをつくらせ、そこにソビエトや中国からの帰還兵工作員を合流させて、民主化の手先として使うという方針があり、ノーチェックで帰還兵を受け入れていたのです。

ところが、朝鮮戦争が始まると、それに呼応して、日本共産党が武装闘争方針を掲げて走り出します。

日本の共産化防止に直面したアメリカは、ここで初めてソビエトや中国から大量に帰還する「工作員」の存在に脅威を感じます。しかし、とても占領軍の手に負える状況ではなく、日本に頼るしかありません。

こうして、「帰還兵工作員のあぶり出しと監視」という特殊な任務を背負って誕生したのが内調の始まりです。簡単にいえば、その仕事内容は、引き揚げ者に交じって帰国したスパイ、工作員のチェックと監視でした。

とはいえ、引き揚げ者そのものが「戦争の犠牲者」です。国の命令で戦争に駆り出され、戦い、敗れて捕虜となり、辛酸をなめてきた人たちです。好むと好まざるとにかかわらず、洗脳され、スパイを強要され、生き残るためにそれを受け入れて帰国したであろうことは容易に推察できます。

そういう人たちをチェックし、監視するのですから内調メンバーに課せられた任務は、過酷をきわめたものだったのです。花田自身も「同じ日本人としてつらかった」と露呈したものでした。

「任務をどのように果たしても“恨み”を買うことになる」「スパイを監視する私らが家族を持ったら、自分で弱みを抱えたことになり、本来の仕事はできなくなる」「内調で働くことを決意したときから、“妻を持ち”“子どもをつくる”ことは断念して、この仕事に携わっている」と淡々と話してくれた姿を思い出します。

花田が身罷(みまか)ってから1年半後に届いた妹さんからの手紙には、こう書いてありました。

▲花田惟孝(筆者提供)

兄がみずからの人生を燃焼し続けた仕事はなんであったのか。その根本になっていった信念はなんであったのか。どんな方々とお付き合いのなかで、どんな人生を過ごしていったのかを知りたい。

家族にさえいっさいを語らず、最悪の事態に備え、任務に従事した花田さんの“生きざま”の足跡が、そこにはありました。こうした内調プロパーの人たちの果たした苦労と尽力があったからこそ、戦後の治安は守られ、経済発展の基礎も築けたのだとつくづく思います。

※本記事は、福田博幸:著『日本の赤い霧 極左労働組合の日本破壊工作』(清談社Publico:刊)より一部を抜粋編集したものです。