2023WBCでは侍ジャパンが優勝となり、日本人の野球熱が高まっていますが、第95回選抜高校野球大会も甲子園で始まっています。この春のセンバツ、そして夏の選手権をスポーツ用品メーカー・ミズノが始めたことはご存知でしょうか? ブランディングの第一人者・村尾隆介氏が、創業者である水野利八さんのエピソードを紹介します。

※本記事は、村尾隆介​:著『ミズノ本』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

夏春とも高校野球大会はミズノが始めた

日本中が熱狂し、ひとつの文化となっている、あの〈甲子園〉の前身は、実は「美津濃による大会」――この事実はあまり知られていないかもしれません。

実業団野球大会の開催、運営を成し遂げた創業者の利八さんは、すぐに中学校野球の大会の実現に動き始めます。当時の旧制中学校は5年制です。今でいう高校2年生の年齢までの生徒が通っていた計算になります。

主催者として利八さんは、まず新聞社に話を持ちかけましたが、あまり乗り気でなかったといいます。そのため自力でやることを決意します。

明治天皇の崩御による1年延期を経て、1913年8月に第1回の「関西学生連合野球大会」を開催しました。関西一円から40チームあまりが参加したため、各チーム1試合のみの対抗戦形式で5日間にわたって行われました。

新設された豊中球場には、連日多くのファンが訪れ大成功! 翌年の第2回大会よりトーナメント方式で行い、決勝戦は6-5の大接戦で大阪商が優勝旗を手にしました。

第3回大会を前に、大阪朝日新聞から利八さんに申し入れがあります。その内容は「全国規模で中学野球大会をやりたい」というものでした。利八さんは「新聞社なら全国規模で開催が可能になり、野球もより盛んになるでしょう」とバトンタッチを快諾します。

「美津濃の大会」として親しまれてきた関西学生連合野球大会は、時期を変えて第4~6回は1月に、1920年の第8回(この年から、明治天皇の崩御で中止した1912年を第1回と数えることに変更。事実上、第7回は欠番)から1924年の第12回大会までは3月に行われました。

そして、今度は毎日新聞から、夏とは違う方式で全国大会を行いたいという申し入れがあり、こちらも新聞社に主催をバトンタッチすることになりました。これが現在の春のセンバツ大会になっていきます。

なお、“美津濃の大会”の最後の優勝校は松山商で、何十年も保管されていた優勝旗は、同校を訪れた利八さんと涙の再会を果たしています。現在、その優勝旗はミズノ大阪本社に収蔵されています。

▲『ミズノ本』(小社刊)より

野球ボールの質を上げるための独自検査

ミズノが当初は問屋から仕入れていた野球ボールを、自社でゼロから製造し始めたのは、1913年のことでした。それ以来、利八さんは、ハイクオリティな野球ボールづくりに強い気持ちで挑みます。

朝日新聞が開催するようになった夏の中学野球では、第2回大会から試合で使用するボールの大きさと重さをミズノと共に統一したのですが、利八さんはそれにプラスして「バウンドの大きさ」を揃えるために、独自の検査ルールを思いつきます。

それは、4.12mの高さから床に置いた大理石に自然落下させて、1.40~1.45mバウンドすれば合格、それ以外は不合格というものでした。合格の基準に幅があるのは、野球のボールは縫い目があるし、天然のものなので、どうしてもバウンドに多少のバラつきは出るからです。

では、この「高さ4.12mから落とす」ことには科学的な理由があるのでしょうか? いや、特にここにサイエンスは存在せず、これは当時のミズノの本社(お店)の2階の窓の高さ。そして、身長1.50mの利八さんの目線が、だいたい1.40mくらいだったので、まぁ目の高さにまで跳ね返ってきたら、そのボールは合格……と、厳格なんだかザックリなんだか、よくわからないユニークな検査でした(笑)。

でも、野球とミズノの親密な関係を示す素敵なエピソードだと僕は思います。