戦後の道具不足でも野球大会を開催するために

1946年、戦争が終わって最初の1年となる夏に、中学野球を復活させようという声が高まります。

が、GHQは戦後に「日本国民が再び団結するような機会をつくらせない」という方針だったので、これには難色を示したといいます。しかし、関係者の努力によって大会は開催できることになりました。

でも、弱ったのは道具です。主催者であったミズノの2代目・健次郎さんが言うには、特にボールがなくて困ったそうです。

当時、試合用の野球ボールはミズノにも在庫がありませんでした。あるのはボールづくりに手慣れていない従業員が、製造の練習としてつくったようなものだけ。戦争のせいでボールづくりの熟練者が減ってしまい、その欠員をカバーしようと他の従業員が日々ボールづくりの練習をしていたのです。

練習なので、その材料も高品質とはいえず、配給で手に入れた再生毛糸だったそうです。でも、ないよりはまし。中学野球の大会主催者は、それらのボールを「使わせてほしい」とお願いします。

しかし、ミズノの名前が商品についている以上、そのクオリティを高いレベルで求める利八さん。「ミズノが不完全なボールを出せば信用を失う」と、これには首を縦に振りません。野球の大会をサポートしてあげたいという思いも誰よりも強かったはずなので、さぞ複雑な気持ちだったと察します。

で、最終的にはミズノ製の“不完全ボール”を使うことにはなるのですが、相談と交渉の末、どこにこの話が着地したかといえば、ボール自体に「投手練習用」「打てばゆがむ」と表示することを条件に、大会での使用にGOサインが出ました。

そして、これまたミズノの伝説なのですが、他からかき集めてきたミズノ以外の、どのボールよりも“ミズノの不完全ボール”のほうが品質的に優秀だったそうです。

野球ボールの品質向上は利八さんのライフワーク

戦後は品物の価格が決められており(公定価格)、売り手が勝手に値決めすることはできませんでした。また、それと並行して、そういった統制の目をかいくぐったヤミ市では、いわゆる闇価格というものがあり、そこではルール無視の価格設定がなされていました。

さて、いよいよそんな時代も終わり、当たり前のように今日と同様の自由価格の世に移り変わっていく日本。ここから世界がミラクルと称賛する復興・高度成長を遂げていきます。日本は猛スピードで他国に追いつき、そして追い越していきました。

ミズノも、ここから正規の材料を使ってのモノづくりができるようになります。本来の野球ボールの製造が再び始まったのです。

一方、復興と成長の時代は、物価の急騰の時代でもありました。問題は都会の経済と、地方の経済にタイムラグがあり、そこに格差が生まれたこと。

野球ボールの値段があがれば、学校によっては買えなくなってしまうところが出てきてしまいます。

ミズノは品質を向上させつつも、できるだけ安価に抑える企業努力を重ね、1948年から1971年までの23年間、ボール1個450円という価格の維持にこだわり続けました。

▲『ミズノ本』(小社刊)より

1969年は創業者の利八さんが会長となり、健次郎さんがミズノ2代目の社長に就任した年でした。その交代後に行われた最初の取締役会で、利八さんは「経営の実権はすべて新社長に移譲したが、ただひとつ野球の硬式ボールのことは、会長の仕事にしてもらいたい」と発言。取締役会から了解を得ます。

その真意は「ボールの価格を上げずに、地方の学校や野球人にも良質のボールを届ける」という使命をやり遂げるためだったのでしょう。

というのも、利八さんが亡くなったのは1970年3月。ボールの価格を上げずに維持したのは1971年まで。ボールは利益率が低いので、これは大変な仕事だったと想像します。利八さんはボールづくりをライフワークとし、命尽きる直前までギリギリ企業努力を最前線で行った――僕はそんなふうに感じます。

さらに大きく解釈すると、ミズノのバックボーンである「ええもんつくんなはれや」の精神を最後まで貫き、それを社員だけではなく、日本のビジネス界全体に見せてくれたのだと思います。

僕は野球経験がないに等しいのですが、この利八さんのメッセージや生き様を忘れぬよう、自宅には常にミズノの野球ボールをインテリアにして飾っています。

ミズノには社員が自社製品を割引価格で買える、いわゆる“社販”があります。他に知人割もあるのですが、野球のボールだけは社員も知人もディスカウント一切なし。定価で買うのが決まりだそうです。