雨宮慶太・庵野秀明・樋口真嗣​など、さまざまなクリエイター・映画監督とタッグを組んで、多くの作品を発表している造形家​​・竹谷隆之​​さん。

これまで『仮面ライダー』などのフィギュア原型​​、『牙狼〈GARO〉』の美術やキャラクターデザイン、映画『シン・ゴジラ』​​や『シン・ウルトラマン』のデザインに参加。今年の3月には『ジブリの大博覧会』『アニメージュとジブリ展』でジブリファンの度肝を抜いた『風の谷のナウシカ』の王蟲や、風使いの腐海装束​​などの制作過程をまとめたメイキング写真集『腐海創造 写真で見る造形プロセス』(徳間書店)を発売するなど、挙げるとキリがないほど、子どもや大人たちの“心”をトリコにしてきた。

今回は、そんな竹谷さんの過去を紐解きつつ、造形家としてのこだわり、「好き」を仕事にすることへの想いを聞いた。

▲Fun Work ~好きなことを仕事に~ <造形家・竹谷隆之>

ゴム粘土を買ってきて怪人を作って遊んでました

――北海道出身の竹谷さん。幼少期はどんな感じだったんですか?

竹谷隆之(以下、竹谷) 僕らが子どもの頃って、世の中に『仮面ライダー』や『ウルトラマン』が出てきた時代。テレビは、かろうじて家にあったので、かじりついて見ていましたね。そんななかで、漁師をやっていたウチの父の趣味が鉄砲(猟)で、目の前で生き物をバンバン殺すわけですよ(害獣指定された動物駆除のため)。

――えっ!

竹谷 父が撃った動物の皮剥ぎを手伝わさせられたり、「トラバサミに捕まってる動物の頭を殴って殺せ」と言われたり……当時、小中学生くらいですから、そんなことできるわけがないですよね。戸惑いの日々を過ごしていました。

――50年ほど前の話ですが、すごい体験ですね。

竹谷 でも良かったこともあって、美術でもなんでも表現の世界はそうだと思うんですけど、物事を分け隔てなく見るというのは必須条件。「気持ち悪いから見たくない」とか「汚いからイヤだ」とか、そういった考えはなくなりました。だからこそ『ナウシカ』の視点は腑に落ちるというか、「そうだよな!」と共感できて楽しめました。

――そんな環境で造形やイラストに興味が向いたきっかけは?

竹谷 それはやはり、『ゴジラ』であり『ウルトラマン』であり『仮面ライダー』じゃないですかね。そういった作品を見ていると絵で描きたくなったり、粘土で作りたくなったりしていました。当時、漫画もエポックメイキングなものがたくさんありましたし。

――ヒーローと怪人側、どちらに惹かれたんですか?

竹谷 怪人側ですかね。当時、『キカイダー』におけるハカイダーのような魅力的な悪役も多かったんですよ。ゴム粘土を買ってきては、もっぱら怪人を作っていましたが、たくさん粘土を買えるわけではないので、『仮面ライダーV3』のプラモデルの人体部分に粘土を盛って怪人にして遊んでいました。

――高校卒業後、『阿佐ヶ谷美術専門学校』に入学するわけですが、高校の美術教師との出会いが大きかったそうですね。

竹谷 地元が小さな町で高校がなかったので、札幌に出たんです。1年生から部活に入ると、こき使われるのは明白だったから(笑)、2年生から美術部に入りました。その時期はプラモデルばかり作っていたので、成績も悪く、当然入れるような大学がない。美術部の顧問は怖い先生だったんですけど、相談したら学校を教えてくれて。

――そこでピンときたわけですね。

竹谷 “美術の方向になんとなく行きたいな”とは思っていましたけど、まあ消去法というか。特撮、プラモデルが好きなので、それに近いのは美術だなと。もちろんそれらは当時は美術の範疇ですらなかったわけですけど(笑)。

▲寺田が「やれ」と背中を押してくれたんです

寺田が「やれ」と背中を押してくれたんです

――学校に行ってみると、クラスメイトには寺田克也さんをはじめ、天才がたくさんいたそうですね。

竹谷 僕は高校のときに美術部にはいたけど、専門的な勉強をしていたわけじゃないんですよ。だから、自分よりうまい人はたくさんいたし、特にデザイン科がある高校に通っていた寺田は、もうすでに超ウマくて、ゴジラだとしたら、当時すでに第4形態ぐらいになってたんじゃないかな(笑)。あの頃はそう思わないようにしていましたけど、今なら言えますね。ファン第一号でした。

――そういった方々と切磋琢磨して刺激をもらったのでは?

竹谷 そうですね。当時、専門学校では、先生や友達から入ってくる情報をシャワーのように浴びていました。それまで田舎に住んでいましたし、もちろんインターネットもなかった時代ですからね。それになにより、友達との時間が楽しかった。美術好きな人が集まっていたので、僕が求めていた世界だったし、パラダイスでしたよ。

そんな感じで、人との出会いには恵まれましたね。とくに寺田は「面白いからやれ」と、よく背中を押してくれました。僕はふだんボヤッとしているので、そうやって言われないと動かない。寺田がいなければダメ野郎になっていたなと思います(笑)。

――卒業後、働き先が決まったのも“出会い”が大きかったのだとか。

竹谷 専門学校の進級制作として、高校のときに衝撃を受けた加藤直之さんの絵(川又千秋さんのSF小説の表紙)をモチーフにした作品を作ったんですが、じつはこれも加藤さんの画集を持っていた寺田が「作ればいいじゃん」と背中を押してくれたんです。

西荻窪にあったナカマ模型の店員さんに「何か作ったのあったらショーケースに展示していいよ」と言われたので、それを持っていったら、(イラストレーターやメカデザイナーとして知られる)小林誠さんが、下宿先に「今やってる仕事を手伝ってくれませんか」と葉書を送ってくださって。その後、小林さんのつながりでモデルアート社​​(模型雑誌の出版社)に就職しました。

それと同時期、これも寺田がきっかけで雨宮さんの会社クラウドの仕事も手伝っていたんですけど、モデルアートの仕事の合間にやっていたから、体が持たなくなって、2年ほどでモデルアートを辞め、今に至ります。