自分にとって「余計なもの」を捨てる

できないことはできないと知る。それはとても大事なことです。

がっかりすることはみんな嫌ですよね。期待してその結果に応えてくれないと、自分の思い通りにならないことにイライラしてしまうでしょう。

思い通りにならない。それは「自分の基準」で考えているからこそ起こる感情です。私たちがイライラするのは、自分の都合通りにならないときです。

会社に入ったばかりの後輩に仕事のミッションを課して、3回に1回うまくいくとします。「1/3しか成功しない」とイライラする人がいたとしたら、それはナンセンスです。

経験が浅いのに3回に1回もできているのだから、「すごい」と褒めてあげればいいのです。それは子育てでも同様のことがいえます。「この子は1/3しかできない子だ」と残念がるのではなく、「1/3もできる子」だと明らかにして、理解することが大事なのです。

人はそれぞれ違います。自分と同じ人間はいません。前向きにあきらめることが大事なのです。

漢字で書くと「諦める」。この「諦」という字自体には悪い意味はひとつもないそうです。あきらめる、という言葉は余計なものを捨てるといった意味を持っていると私は感じています。

目的のためにいらないものは捨てる。自分が生きていくために目的とすることは何か。

自分にとって「余計なもの」を捨てる イメージ:PIXTA

幸せな人生を送りたいなら、どうしたら幸せになれるのか考えてください。あなたの考える幸せが「いつか南国に移住したい」だったらお金がいりますよね。つまりあなたの考える幸せな人生のために、お金が必要だということです。

そのためには、残業なしで適当に働く、という選択肢をあきらめる必要が出てくるでしょう。あきらめた瞬間に違う案が出てくるはずです。

私を例にとると、論文の締め切りが迫っているのにどうしても執筆が終わらないとします。この原稿を落としたら、学会での信用がなくなるかもしれません。私の場合は医者という本業がありますので、すぐにごはんが食べられなくなる心配はありませんが、人様に迷惑をかけたり、信頼をなくすことは極力避けたいと考えます。

そのとき、私に必要なのはあきらめることです。

時間がなくてひとりで論文を書くのが無理だとしたら、誰かに協力を仰いで、共著という形にして労力を半分に減らすのです。

それによって私ひとりの名声(と言っていいかはわかりませんが)は半分になりましたが、信用を失うという最悪の事態を回避できたわけです。

健康に暮らしている。それだけで幸せ

世帯を持ちながら働く女性の割合は年々上昇しています。特に子育て世代は上昇率が顕著です。

もし、仕事が忙しくて家事をする時間がないとしたら、仕事を部分的に外注してみたり、お金がかかるかもしれませんが、代行業者に家事を頼んだり、ベビーシッターに頼んでガス抜きをすることが大事です。

真面目な人ほど、全て自分でこなさなければいけないという足かせに苦しんでいる気がします。

大切なのはキャパオーバーしないこと。

お金と心の健康だったら、最終的にどちらが大事か考えましょう。すべてを両立はできない。どこでもどちらかから撤退する勇気が必要なのです。

想像してください。自分の身内や子供が心のキャパオーバーで「死にたい」と言ったら、あなたはどう思うでしょうか。

きっと「生きていてくれればそれだけでいい」と思うのではないでしょうか。ということは、こんな自分でも誰かにそう思われているということなのです。

孫と祖母の関係を考えましょう。祖母は孫が産まれてきてくれただけで、健康に暮らしているだけで幸せに感じています。

「元気でいればいいよ」「偉くならなくてもいいよ」

祖母は、私がごはんをおかわりしたり、背が伸びたり、何をしても褒めてくれる、私の味方でした。たとえば、口やかましい親だって子供に対して、最初は祖母と同じことを思っていたはずです。しかし次第に欲が出てしまい、「立派になってほしい」と思うようになるのです。

ときには電話で話したり、親と仲良く良好な関係を構築するのはいいかもしれません。あなたが生きていることを喜んでくれる人がいると知るだけで何かをあきらめる勇気をもらえるからです。生きているだけでいい。自分に無理してまで期待に応える必要がないことに気づいてください。

あきらめとは、人に対して過度な期待はしないことも意味します。当たり前の話ですが、すべてがあなたの思うようになるわけではないということを知ってください。