プロテスタントの誕生とオスマン帝国

キリスト教には、大きく分けて2つの宗派があります。「カトリック」と「プロテスタント」です。

もともとキリスト教はカトリックと呼ばれ、ローマ教皇を頂点とする教会組織でした。しかし、教会の腐敗ぶりに嫌気がさし、ローマ教皇(教会)を通さず、キリスト教を信仰するグループが現れます。それがプロテスタントです。

プロテスタントは聖書と直接向き合うことを重視したため、それまでラテン語しか存在しなかった聖書を、さまざまな言語に翻訳する必要がありました。ドイツ語などに翻訳された聖書は一気に広まり、プロテスタントは多くの支持者(信者)を獲得していきます。

プロテスタントが誕生した一連の出来事は「宗教改革」と呼ばれます。フランシスコ・ザビエルが日本に来た理由は、ヨーロッパでプロテスタント信者が増大し、減少するカトリック信者を海外で獲得するためでした。ザビエルはカトリック教会から派遣された“営業”だったのです。

カトリックとプロテスタントの対立は、ついには宗教戦争へと発展。1618年から1648年まで血みどろの戦いを繰り広げました。戦争は約30年続いたため「三十年戦争」と呼ばれています。主戦場となったドイツでは、この戦争によって発展が100年遅れたと言われています。1600年代初めの日本は、ちょうど江戸幕府が設立されたばかりの時期になります。

1648年、三十年戦争の講和条約としてウェストファリア条約が結ばれます。信仰の自由が認められ、カトリックとプロテスタントのどちらを信仰するのか、各々の国家が選べるようになりました。

ウェストファリア条約の中身は釈然としない内容が多く、妥協的な決着だったとも言われています。その理由としては、当時のオスマン帝国が、ヨーロッパへの侵入を繰り返していたからです。カトリックとプロテスタントが協力して、オスマン帝国に対抗しなくてはいけませんでした。 

▲トルコにある世界遺産アヤソフィア大聖堂 写真:Nakasaku / PIXTA

オスマン帝国は、今のトルコあたりに建国されたイスラム国家です。現在のトルコ共和国も、オスマン帝国を引き継ぐような形で1924年に建国されました。

16世紀から17世紀にかけてオスマン帝国は絶頂期を迎え、たびたびヨーロッパに侵入します。当時のヨーロッパで文化の象徴だったウィーンを、2回にわたって包囲。ヨーロッパを震撼させました。モーツァルトの「トルコ行進曲」は、あまりに強すぎるオスマン帝国への恐怖によって作られたことは有名です。

しかし、18世紀のオスマン帝国は相次ぐ戦争によって財政が悪化し、逆にヨーロッパの支援を受けることになります。このときフランスの資本を積極的に導入したため、オスマン帝国にはフランスの文化が流入することになりました。

また同時に、オスマン帝国を経由して、フランスにも「東洋の文化(オリエンタリズム)」が広く知られるようになります。当時のオスマン帝国を日本に置き換えた場合、幕末や明治時代をイメージするとわかりやすいかもしれません。日本も開国によって、ヨーロッパ文化の影響を多く受けました。

“性の解放”を象徴するオダリスク

20世紀に突入すると、ヨーロッパ全体に不穏な空気が漂い始めます。「ヨーロッパが世界のなかで、もっとも優れた文明である」という信頼感が、ヨーロッパ内部から失われつつあったからです。

19世紀後半から始まった、ヨーロッパ列強による植民地の獲得競争が激化。いつ大きな戦争が始まってもおかしくない状況のなかで、自らのヨーロッパ文明(文化)に対して、懐疑的に考える文化人が多く現れるようになりました。

彼らが抱く不信感は、1914年の第一次世界大戦でピークに達します。こうした背景からヨーロッパの外にある文化、そのなかでも18世紀あたりからヨーロッパに流入した「オリエンタリズム」に関心が向かったのです。

代表的な人物なのは、哲学者のニーチェです。彼の代表作である「ツァラトゥストラはかく語りき」は、古代ペルシアを発祥とする世界最古の宗教であった、ゾロアスター教をモチーフにしています。ニーチェはオリエンタリズムの思想を取り入れることで、行き詰まるヨーロッパ文明の転換を試みたかったと言われています。

当時のヨーロッパではニーチェだけでなく、ヨーロッパ文明に否定的だった文化人によって、オリエンタリズムは積極的に受け入れられていきます。ヨーロッパの価値観(禁欲や合理性)では理解できない、オリエンタリズムの神秘性が彼らの好奇心をかき立てたのです。

そのなかでも「オダリスク」の存在は象徴的でした。オダリスクとは、オスマン帝国のハーレム(イスラム君主の後宮)に仕える女奴隷のことです。ハーレムとはアラビア語で「禁じられた(あるいは私的な)」場所を意味し、男性の立ち入りは厳しく制限されていました。少し異なる部分があるかもしれませんが、江戸時代の「大奥」をイメージするとわかりやすいかもしれません。

日本人が「大奥」に魅力を感じるのは、密室空間で行われる性の営みを「見てはいけないけれど、見たい」という、エロティシズムによるものでしょう。同じようにオダリスクは“性の解放”を象徴する存在であり、プロテスタントの禁欲的な文化に対する反動として、ヨーロッパ人にはとても刺激的に映ったのです。そのため多くの芸術家がオダリスクを作品の題材とし、マティスもその一人になります。

▲グランド・オダリスク(ドミニク・アングル) 出典:Louvre, Paris / Wikimedia Commons

1945年、第二次世界大戦が終了します。二度にわたる世界大戦で荒廃したヨーロッパにおいて、自分たちの文明(文化)が持つ優秀さを主張する文化人はいませんでした。

学問においては「カルチュラル・スタディーズ」が謳われ、多種多様な文化のなかでヨーロッパも、ひとつの文化に過ぎない存在として扱われます。哲学でもレヴィ・ストロースによって「構造主義」が主張され、ヨーロッパの優越性は完全に否定されたのです。

「オリエンタリズム」と「ヨーロッパの終焉」という時代のなかで、マティスは芸術活動を続けました。ヨーロッパの優位性を否定し、オリエンタリズムを積極的に受け入れたアンリ・マティスは、現代の多様性へとつながるきっかけを作った芸術家であると言えるでしょう。