宗教によって区分された「トルコ人」「ギリシャ人」
こうして、オスマン帝国が解体され、「トルコ人の国」としてトルコ共和国が発足するにあたり、新生トルコ共和国はギリシャとの住民交換協定を結びますが、その際、「トルコ人」と「ギリシャ人」の区分は宗教がベースになっていました。
具体的には、アナトリアに住みトルコ語を母語(ないしは第一言語)としていても、正教会信者であれば「ギリシャ人」に、逆にギリシャ国内に住み、ギリシャ語を話していてもムスリムであれば「トルコ人」に認定され、「ギリシャ人」はギリシャへ、「トルコ人」はトルコへの移住を余儀なくされました。
こうして、アナトリアに住みトルコ語を話すムスリムのあいだに、「トルコ人」としてのアイデンティティが定着していくことになります。
その一方で、「トルコ人」国家のトルコ共和国は、トルコ語を母語としないムスリム諸民族のクルド人などのマイノリティを「トルコ国民」として、強引に「トルコ人」に同化・統合しようとしました。当然、クルド人からすると、トルコ語を母語としない自分たちが勝手に「トルコ人」に“吸収”されるのは受け入れられません。
しかし、政府は「トルコ人の国」として国民国家をつくっていく建前上、クルド人に対する同化政策(トルコ人化)を推進し、クルド人が「私はクルド人です」と民族アイデンティティを公言することに圧力をかけてきました。
すなわち、クルド語の公的な場での使用が禁止され(出版や放送の禁止も含む)、クルド語の地名もトルコ語に変えられ、クルド語の本も没収され“焚書”されていったわけです(ピークは1980年代前半)。
このような社会では、自分がクルド人であることをあえて表明すれば、差別の対象にもなります。そのため、同化政策の推進とともに、クルド人への差別問題も出てきました。
トルコを追われたクルド人がスウェーデンへ
これに対して、欧州諸国は、トルコを牽制する意図から、クルド人の民族意識を尊重し、欧州各地にクルド人コミュニティの形成を容認していきます。
1950年代以降、ヨーロッパが戦後復興から経済成長していく過程で「トルコ国民」が多数、移民労働者としてヨーロッパに渡りましたが、そのなかには、少なからずクルド人も含まれていました。彼らはトルコでは迫害されていた身ですから、国外に出ようとするのも当然といえば当然です。
さらに、1970年代以降になると、自国で反体制派として活動していたような左派系の政治難民が、世界各地からヨーロッパ(主に北欧)に逃れていきます。その“受け皿”として彼らを特に積極的に受け入れていたのが、スウェーデンでした。
トルコからスウェーデンにやって来るクルド人移民はその後も増え続け、やがてスウェーデン国内にクルド人のコミュニティが形成され、彼らはスウェーデンから世界に向けてクルド人の情報を発信するようになっていきました。つまり、スウェーデンは「クルド・ナショナリズム」を世界に発信する一大拠点となったわけです。
当然、トルコ側からすると面白くありません。だから、スウェーデンのことを「テロ組織の温床」と批判し、NATO加盟をめぐる問題で特に“目の敵”にしてきたのです。