2月6日未明、トルコ南部とシリアの国境付近で大地震が発生しました。2月13日現在、トルコとシリアを合わせて死者は3万7千人を超えており、さらなる被害の拡大が懸念されています。トルコと日本の距離は約8500kmと離れていますが、じつは親日国家としても有名で、これまでも両国は助け合ってきた歴史があるのです。

トルコとの友情の歴史を振り返る

両国の友好関係の発端は明治時代にさかのぼります。1890年9月、和歌山県沖を航行していたオスマン帝国の艦船エルトゥールル号は、台風によって遭遇、沈没してしまいます。

このとき、日本人による不眠不休の救助活動がおこなわれ、69名が救助されました。生存者は神戸の病院で治療を受けたあと、日本海軍の軍艦により帰国の途に付きました。この出来事はトルコの教科書にも載っており、今なおトルコ人の心に深く刻まれているそうです。

イラク・イラン戦争がおこなわれていた1985年3月、イラクのサダム・フセイン大統領はイラン上空を通過する航空機を無差別攻撃すると宣言します。このときイラン国内には215名の日本人がいました。本来なら自衛隊が救出すべきですが、当時は自衛隊による海外派遣は法律で禁止されていました。

頭を抱えた日本政府がトルコ大使に相談すると、ただちにトルコ政府は救援機(トルコ航空)をイランに派遣。日本人215名の救出に成功したのです。命懸けの救出を担当したトルコ航空の機長は、エルトゥールル号で生存したトルコ人の子孫であったそうです。

トルコ大使は、救助の理由を聞かれるとこのように答えました。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人の献身的な救助活動をトルコ人は忘れていません。小学生のとき、私も歴史の教科書で学びました。トルコの子どもは全員知っています。私たちはエルトゥールル号の恩を返しただけです」

▲和歌山県串本町にあるトルコ記念館 写真:papa88 / PIXTA

ヨーロッパとアジアをつなぐトルコ(オスマン帝国)

トルコの起源は「オスマン帝国」になります。1299年、イスラム教を掲げる国家としてオスマン帝国は誕生します。

イスラム教は610年にムハンマドを預言者として成立したと言われています。「聖戦(ジハード)」を掲げ、現在の中東地域を中心にして、瞬く間に影響力を拡大していきました。ムハンマドの後継者は「カリフ」と呼ばれ、カリフの意志を引き継ぎ聖戦を継続することが、イスラム世界の使命になります。オスマン帝国もこの使命を与えられた国家の1つでした。

日本の歴史を見ていくと、宗教的な権威者(天皇)と政治的な指導者(将軍)は、長きにわたって別の人間が担当してきました。1185年、天皇は源頼朝を征夷大将軍に任命。頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、日本では「政教分離」の政治システムが定着しています。現代の日本でも内閣総理大臣が国会で指名されると、新しい総理は皇居に出向き、親任式をおこないます。天皇に許可されることで、正式に総理に就任できるのです。

イスラム世界も同じようなシステムになります。ムハンマドの後継者を意味するカリフが宗教的な権威者であり、政治(軍事)的な指導者は「スルタン」と呼ばれています。あくまでもカリフに優位性があり、カリフによってスルタンが承認されるところも、日本とよく似ています。

しかし、オスマン帝国がイスラム世界を統一すると、帝国内にスルタンとカリフが同時に存在する「スルタン=カリフ制」が採られたため、政教分離のスタンスはあやふやな状態になってしまいました。

小国としてスタートしたオスマン帝国ですが、領土を順調に拡大していきます。1453年、東ローマ(ビザンツ)帝国を滅亡させ、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都にしました。ヨーロッパとアジアをつなぐ場所に位置したオスマン帝国は、東西の交通路として長きにわたって繁栄を築くのです。