ロシアのウクライナ侵攻を受けて、これまで長年にわたって中立政策をとってきたスウェーデンがNATO加盟を申請したことと、それに対してNATO加盟国のトルコが強く反対したことは日本でも注目されました。聞いたことはあるけれど、説明できない「トルコのクルド人問題」。博覧強記の郵便学者・内藤陽介氏が国際ニュースのそんなお悩みを解決します。

※本記事は、内藤陽介:著『今日も世界は迷走中 -国際問題のまともな読み方-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

多民族文化ゆえに漠然としていた「トルコ」

トルコがスウェーデンのNATO加盟に難色を示した大きな理由のひとつが、クルド人の問題です。クルド人とは、トルコ・イラク・イラン・シリアなど中東世界の国々の国境付近にまたがって居住している山岳民族であり、独自の国家を持たない世界最大の民族集団だと言われています。なかでもそのクルド人が多く住んでいるのがトルコです。

クルド人はこれまで自治・独立を求めてトルコ政府とたびたび武力衝突してきました。そして、それをトルコ政府が強権的に押さえつけるたびに、欧米諸国が人権弾圧・非人道的と非難する構図が今日まで繰り返されています。

スウェーデンが2022年5月にNATO加盟申請をした際、トルコのエルドアン大統領は、スウェーデンが反体制派のクルド人テロリスト(とトルコ側が認定している人々)の温床になっているとして、スウェーデンのNATO加盟に反対しました。

そもそも、なぜスウェーデンは、トルコに“目の敵(かたき)”にされるほどクルド人と深く関わっているのでしょうか。じつは、そこにはトルコという国家の成り立ちも関係しているのです。

▲トルコ共和国 地図:tomcat / PIXTA

現在のトルコ共和国は、1923年に「トルコ人の国」であることを謳って誕生した国です。

今日、私たちはアナトリア半島とその対岸のイスタンブール周辺を「トルコ」として認識しています。しかし、歴史的に見ると「トルコ人(チュルク系民族)」がもともと住んでいたのは、中央アジアです(「トルクメニスタン」が、そもそも「トルコ人の国」という意味)。そこから出てきたオスマン帝国が急激に拡大し、かつてキリスト教徒が都にしていたコンスタンティノープルを占領してイスタンブールに変えました。

第一次世界大戦までのオスマン帝国は、多言語・多宗教の多民族国家で、住民には信仰の自由がかなり認められていました。住民は、まず大まかに宗教ごとに分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれてエスニック・グループを形成していました。

この場合、人々は、ムスリム(イスラム教徒)やキリスト教徒など、まずは自分の属する宗教コミュニティにアイデンティティを求めます。さらに、ムスリムに関していえば、彼らはトルコ語をはじめ各種の母語グループに分かれていただけでなく、エリート層のあいだでは、トルコ語にアラビア語とペルシア語の語彙や文法を取り込んだ「オスマン語」が使われていました。

もちろん、オスマン語を使っていたエリート層には、いわゆるトルコ系のみならず、アラブ系やギリシャ系、スラヴ系など、民族的にはさまざまな血統の人たちがいました。

こうした状況のもとで、「トルコ人」はアナトリアのテュルク諸語を話すムスリムの人々のことを漠然と指しており、オスマン帝国が「トルコ」を自称していないにもかかわらず、ヨーロッパ人をはじめオスマン帝国の域外で生活している人々は、彼らが属しているオスマン帝国のことを「オスマントルコ」ないしは「トルコ帝国」と呼んでいました。

トルコ共和国を成立させたムスタファ・ケマル

一方、1830年にオスマン帝国から独立したギリシャをはじめ、19世紀にはバルカン諸国でナショナリズムの昂揚により、「(彼らの認識による)トルコ人」の支配から独立する動きが盛んになりましたが、肝心のオスマン帝国の側では「トルコ人」の定義があいまいで、そのことが、国民国家を掲げる周辺諸国とオスマン帝国との領土紛争の要因となっていました。

1918年、オスマン帝国は第一次世界大戦に敗北しましたが、その時点では、アラブ地域の大半は連合国によって占領されていたものの、アナトリアの全域と東トラキア(ルメリアの一部)、北シリアのアレッポ、イラク北部のモースルは依然としてオスマン帝国が維持していました。しかし休戦協定が発効すると、連合国はオスマン帝国の領土に進駐。アナトリアはイギリス・フランス・イタリア・ギリシャによって分割占領されます。

これに対して、アナトリア各地でも分割に反対する抵抗運動が発生。このため、オスマン帝国政府は大規模な反乱の発生を抑えるためにムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)を派遣しましたが、1919年5月、黒海沿岸のサムスンに上陸したケマルは、現地に駐留する帝国軍や活動家を結集して「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を設立します。

ケマルは、同年末にはイスタンブールにおける帝国議会を事実上掌握し、翌1920年1月、帝国領のうち「トルコ人」が多数を占める地域は不可分である、とする国民誓約を採択しました。

これに対して、イギリスを中心とする連合国は同年3月、イスタンブールを占領。8月に帝国政府とセーヴル条約を締結します。この条約では、トルコ国家に残されるのはアナトリア北部の3分の2に過ぎず、アナトリア東部にはアルメニア人の国家が建設されることになっていました。

このため、権利擁護委員会はアンカラで「大国民議会」を開催。大国民議会はケマルを議長に選出し、オスマン帝国とは別の内閣と政府を持つレジスタンス政権が誕生します。

その後、大国民議会政府はロシアのソビエト政権と連絡をとり、アルメニア軍を撃退して東部アナトリアを確保するとともに、西部戦線では、1921年にギリシャ軍を撃退。この結果、連合国はセーヴル条約を放棄し、ローザンヌであらためて大国民会議政府と講和会議を行うことになりました。

これを受けて、1922年11月1日、ケマルのアンカラ政府は、世俗の権力としてのスルタンと宗教的権威としてのカリフを分離したうえで、スルタン制を廃止。これにより、オスマン帝国は滅亡し、最後の皇帝となったメフメト6世は亡命しました。

そして1923年、アンカラ政府は連合国とのあいだにローザンヌ条約を締結し、トルコ国家の独立承認とともに関税自主権回復、治外法権撤廃など不平等な国際関係を廃止することに成功。一連の成功により、救国の英雄としての地位を確立したケマルは、同年10月29日、トルコ共和国の成立を宣言。ケマルは大統領に就任しました。