戦国時代を生きる武士たちの日常はどうだったのだろうか? 大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を務める小和田哲夫氏と歴史コンテンツプロデューサーの辻明人氏に、織田信長の馬廻衆として仕えた佐久間兵大夫を主役として、ある日の生活をシミュレーションしてもらいました。

※本記事は、小和田哲男/辻明人:監修『もしも戦国時代に生きていたら -武将から市井の人々の暮らしまでリアルシミュレーション-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。

武士の朝はルーティンから始まる

この日、佐久間兵大夫は寅の刻(午前4時前後)ころに目覚めた。

夜着〔よぎ:着物のような形をした寝具〕を脱ぎ寝床を離れた兵大夫は、手綱〔たづな:下着。褌(ふんどし)のようなもの〕を締め直したあと、枕元に畳んだ小袖〔こそで:筒袖で袖口の小さい和服。現在の着物の原形〕に腕を通して、すばやく帯を締めた。

屋敷内はまだ暗闇である。兵大夫は戸を打つ風の音を聞きながら、息を潜めて外の様子をうかがった。

枕元に置いていた小刀を腰に差した兵大夫は、土間で草履をつっかけて板戸を開けると、月明かりを頼りに屋敷のまわりを見回った。厩(うまや)の馬も起きているようで、小さくいななきながら小者〔こもの:武家に仕えて雑役を行う人〕が与えた餌を食んでいる。

土間(どま)に戻った兵大夫は、水瓶の水を茶碗に汲んで飲み干したあと、今度は大きめの木桶(きおけ)にたっぷりと水を汲み、庭に出て行水をした。信長の馬廻として鍛錬を欠かさない兵大夫でも、冬の行水は寒さがこたえる。この日は4日ぶりの行水だった。

手ぬぐいで体を拭いてから手綱を締め直し、再び小袖をまとった兵大夫は、青みがかってきた東の空に柏手(かしわで)を打って、熱田大明神を遙拝(ようはい)し、座敷に戻ると髪を結い直し、「南無妙法蓮華経〔妙法蓮華経(法華経)に帰依(南無)するという意味の念仏。なお、日本では近世まで神仏習合が常識で、神と仏の両方に帰依することに矛盾を感じる人はほぼいなかった〕」と四半刻(30分)ほど唱えた。

題目を唱えているうちに空は赤く染まり、外では鳥の声がかまびすしくなってきた。

そろそろ出仕(しゅっし)の時間だ。兵大夫は袴と肩衣(かたぎぬ)を身に着けると、小者に用事を言いつけ、太刀を佩(は)いて城へと向かった。

▲現在の熱田神宮 神楽殿 写真:和尚 / PIXTA

城への出仕して左義長の準備

安土城に出仕した佐久間兵大夫は、まずは厩に行き、織田信長が諸国から集めた名馬〔信長の名馬好きは当時から有名で、生涯に百頭以上を所有したといわれている〕を見て回った。

馬の世話だけなら厩番(うまやばん)で十分だが、兵大夫は馬の目利きの力を見込まれ、定期的に馬の体調を見るよう上役から指示されているためだ。

厩の見回りを終えた兵大夫は、城の台所で菜飯(なめし)を握ったもの〔当時は赤米や黒米の玄米の握り飯が多かった。具を刻んで混ぜることもあった〕と白湯をもらい、その場で急いで食べた。

朝食後、兵大夫と石黒彦二郎が安土城南殿の書院で控えていると、馬廻指揮官の菅屋長頼がせわしげにやってきた。今年も昨年同様に安土城下で左義長〔さぎちょう:どんど焼きのこと。信長の左義長は盛大に爆竹(ばくちく)を鳴らして騎馬隊を練り歩かせ、最後に騎馬を町中に走らせるという派手なもので、当て字で「爆竹(さぎちょう/さぎっちょう)」とも表記する。信長は、天正九年にも同様の催しを行った〕を催すため、長頼の指示で二人は準備にかり出されているのだ。

▲近江八幡の左義長まつり 写真:terkey / PIXTA

兵大夫と彦二郎の任務は、馬場〔ばば:馬術の練習や競技などを行なうために用いる場所〕の普請(ふしん)だ。普請そのものは、昨年の左義長で用いた馬場がそのまま使えるので、さほど手間はかからない。

しかし、足軽〔あしがる:下級武士。長槍や鉄砲を扱う歩兵として用いた〕や人足を使って地面をならしたり、石を取り除いたりといった作業が必要なため、二人はその監督をしているのだ。

兵大夫は、長頼におおむね普請が完了したことを告げたのち、馬場の図面を広げて詳細を報告した。彦二郎のほうでも、すでに客分の馬術家・矢代勝介による馬場での試走を済ませており、準備はほぼ整っている。

兵大夫と彦二郎の報告を聞き終えた長頼は、「さようか。大儀(たいぎ)であった」と二人を労い、来た時と同様にそそくさと書院を出て行った。