怪獣の世界へのパスポートは初版500部
大学において「シン・特撮オタク」としての新たな視点を獲得した西川さんだったが、学業のほうでの単位はまったく獲得できず。3年生の段階で、4年間で卒業できる見込みはなくなっていた。
そうした知らせを大学の事務室から受け取った父親が、西川さんを旅行に誘ったという。行き先は、家族良好の定番だった城崎温泉。旅館で布団を並べていると、父親はこう言った。
父親「おまえは卒業はできるのか」
西川「(あー、やっぱりその話か……)全然無理」
父親「大学は一応8年まで行けるらしいな。8年だったらどうだ?」
西川「いや、もうその気がなくなってるから、何年行こうがたぶん卒業できないな」
父親「わかった。じゃあ、もう3年生でやめろ」
西川「え!?」
父親「4年まで行ってやめたら、卒業できなかったみたいでカッコ悪いけど、3年でやめれば、志があってやめたことになるじゃないか」
「ただし、中退を認める交換条件として、本を作れって言われたんですよ。親父は僕の絵の実力を認めてくれてはいたようです。でも、評価を得るには見せられる作品がなくては始まらない。
今ならコミケとかで売ってる、いわゆる“薄い本”もわかるんですけど、当時はオタクカルチャーを知らず、本っていうと書店で売ってる単行本しか思い浮かばず、漫研で描いてたゴジラのネタが50ページ分ぐらいあったので、それに継ぎ足して単行本にしようと、先輩に手伝ってもらったりしながら193ページの同人誌を描いたんです。幸い親父の仕事柄、得意先に印刷会社もありましたし、資金もちょっと援助してくれました」
そうして、1986年にMASH.名義で『ゴジラ伝説』という、まさに伝説の同人誌が刊行された。初版500部。この一冊が、結果的に西川さんの怪獣業界へのパスポートとなっていく。
漫画家への足がかりと挫折、ゲームへの寄り道
このときに西川さんが目指したのは、絵を生業にすること。どちらかというと漫画家で、怪獣デザイナーなどは想定もしていなかった。ともあれ、地元・京都の即売会で知り合ったサークルに相乗りしてコミケデビュー。
小学館『少年サンデー』誌上で開催されていた「同人誌グランプリ」に入賞し、漫画家への足がかりを得る。1作品を仕上げて頓挫したあと、ゲームの会社でアルバイトを始めるが、今度は講談社から漫画家デビューの誘いを受けることになった。
「僕は新しいものが好きで、すぐに興味があっちこっちへ行くタイプなんですが、ゲーム会社に寄り道したことで、今度こそキチンと自分の気持ちの確認ができました。最初のデビューのチャンスでは1回逃げたけど、やっぱり本当に自分がやりたいのは漫画だと。
自分の性格上、今後もきっと新しいことに興味は向いていくだろうけど、漫画をメインにやるっていうことは外すまい、という覚悟を持つことができたんです。ちなみに、今のカミさんと出会えたのもゲーム会社でした。なので、この寄り道は決して無駄ではなかったです(笑)」
改めて漫画家を目指して上京し、1988年の『土偶ファミリー』での商業漫画家デビューに至る。……のだが、もうひとつ、本人の知らないところで怪獣デザイナーへの道もつながりつつあるのであった。
「家の近所に、ゲーム会社時代の先輩のお兄さんが住んでいて、その方が特撮専門誌『宇宙船』の立ち上げメンバーである聖咲奇(ひじりさき)さんなんですが、ときどき呼ばれて聖さんのAmiga(アミーガ)というマシンで、CGのデータを作っていたんです。で、ある日、聖さんの同僚のスミヤさん(隅谷和夫)という方から、問い合わせがあったんです。“シカゴに住んでる知人が、こういう雑誌を探してるんだけど……”って」
それがなんと『ゴジラ伝説』だったのだ。刊行後、評判が評判を呼び、3度の増刷を経て、5500部に到達していた。人気はじわじわと広がり、海外にまで知れ渡っていたのだ。
「このスミヤさんが東宝のスタッフともコネクションのある方で、川北絋一監督ともつながってたんです」
川北紘一とは、1962年に東宝株式会社に入社後、特殊技術課、特殊撮影係りを経て、円谷英二特技監督・有川特技監督・中野特技監督に師事。『ウルトラマンA』で特撮を初演出し、『ゴジラvsビオランテ』で待望のゴジラ特撮を担当した人物だ。
初めての出会いは、川北が特技監督を務めていた映画『ガンヘッド』の撮影現場。景山民夫原作の『遠い海から来たCOO』の実写映画化に際し、「かわいい恐竜のデザインができないか」という相談だった。
「それで、恐竜のスケッチをいくつか描いて、『ゴジラ伝説』を持って撮影所に行ったんです。恐竜のスケッチには“ふーん、なるほど”みたいなリアクションだったんですが、本には興味を持たれたみたいでした。僕自身も特撮の現場を見られてラッキー! ぐらいに思ってたんですが、半年ぐらいして電話が鳴ったんです」
1989年公開『ゴジラvsビオランテ』撮影中の川北からだった。呼び出されたのは、東宝の撮影所。スタッフルームには、川北監督だけでなく、撮影や美術などのメインスタッフが勢ぞろいしていた。
「川北監督が“ビオランテが決まんねえんだよ。撮影所に来て、描いてみてくんねえか?”って(笑)。どうしてもビオランテの最終形態に納得がいかない。しかもスーツを発注する関係上、締め切りは3日以内だって言われました。
さらに、その時点で、『スタジオぬえ』とか横山宏さんとか、伝説級の方々が描いた絵が分厚いファイルになってるわけです。これが全部ボツなんか! これよりもすごいの描かないといかんのか! と震えました(笑)」