ビールやソーセージ、自動車などで馴染みがあるドイツ。日本人はあまり意識しませんが、同じドイツとはいってもライン川のほうのフランスに近い西側と、ベルリンなど東側は違う文化です。ドイツ在住のベストセラー作家・川口マーン惠美氏と青山学院大学教授・福井義高氏が、西と東で異なるドイツの文化について語り合います。

※本記事は、川口マーン惠美 / 福井義高:著『優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音 -移民・難民で苦しむ欧州から、宇露戦争、ハマス奇襲まで-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

音楽家にとっての聖地・ライプツィヒ

川口:私はドイツにはもう40年以上住んでいて、4年前に38年間も暮らしていたシュトゥットガルトから、旧東ドイツであるライプツィヒ市に引っ越しました。

ライプツィヒはザクセン州に属し、過疎化と高齢化の旧東ドイツのなかでは珍しく人口が増えており、現在の人口は60万5000人と、ザクセンの州都ドレスデンよりも5万人近く多い。出生率もV字回復中という元気な町です。

私はこれまで、漠然とドイツのことは知り尽くしているような気になっていたのですが、全然そうではなかったのだということをライプツィヒに住んで気づきました。

まず、肌で感じたのが、そもそもドイツの中心は、東にあったのだという歴史的事実。なかでもライプツィヒは、学問・商業・芸術、どれをとっても、まさにその頂点を極めた町だということがわかります。その名残は、今も街のそこかしこに色濃く残っていますし、特に音楽家にとっては聖地のようなところです。

たとえば街の中心にある、作曲家バッハが25年も音楽監督をしていたトーマス教会では、当たり前のように礼拝やコンサートが行われているし、通りがかった建物にさりげなく貼ってあるプレートを見ると、「クララ・シューマンの生家」などと書いてある。ワーグナーが生まれたのもライプツィヒだし、ここの音大はドイツで一番古くて、しかも、最初の学長がメンデルスゾーンです。

▲トーマス教会 写真:Scirocco340 / PIXTA

ライプツィヒ大学の入口ホールには、哲学者ライプニッツや、メビウスの輪で有名な数学者メビウス、ゲーテやニーチェなどの胸像がずらりと並んでいます。皆ここで教鞭をとったり学んだりした人たちです。胸像はありませんけれど、メルケル前首相もこの大学の卒業生です。

また、街の中心の、入り組んだ建物のあいだに残っている「パッサージュ」と呼ばれるアーケードは、過去に裕福な商人たちが品物を展示した場所で、当時の瀟洒(しょうしゃ)な商館を彷彿とさせます。

自動車の町・シュトゥットガルトは貧しい土地だった

圧巻は音楽会。東独時代の40年間、西に比べて娯楽が少なかったからでしょうか。人々が愛し守り続けた伝統が、今もなお頑固に受け継がれているかのようで、純粋に音楽を聴くために人々が粛々と集まってくる。人間の息遣いが感じられるのです。

しかも、ゲヴァントハウスの演奏会もオペラも素晴らしい出来栄えで、街のストリートミュージシャンまで惚れ惚れとするレベルです。私はオペラファンで、シュトゥットガルトでもしょっちゅう通っていましたが、私がそれまで聞いていた音楽がデジタルなら、ライプツィヒはアナログのような、なんだか不思議な感覚にとらわれました。

とにかく、ライプツィヒの音楽ファン層は極めて重厚です。シュトゥットガルトでは、音楽会に行くのがステータスと思って、社交の一環として来ていた人たちも結構いたように思います。

シュトゥットガルトは戦前までは貧しい土地で、自動車産業やIT産業の勃興などつい最近の話。ライプツィヒの長い栄華とは比べようがない。

東独時代には、すべてが煤(すす)けて見すぼらしくなっていたんでしょうけど、街の中心のところはすっかり修復されていますから、威風堂々としています。そして、その建物と空気に、何世紀分もの歴史が澱(おり)のようにへばりついている。

シュトゥットガルトは、自動車の町で、ベンツとポルシェの本社があります。当然、その関連会社も山ほどあり、景気は良く、人々は自信満々で、地価の高騰さえ自慢の一つにしていました。そして、西の人間の例に漏れず、たいてい東を少しだけ見下していたんですね。

でも、ライプツィヒに実際に来てみて、私は西の人間が東を見下すのは、まるでお門違いだと思うようになりました。

▲地図:Shin@K / PIXTA

福井:東ドイツは、元はプロイセンの中心部ですからね。19世紀にオットー・ビスマルクが成し遂げた統一ドイツの中心はプロテスタントのプロイセンで、西ドイツというのはカトリックが多い西側を切り取ったかたちとなりました。

今はドイツとポーランドの国境が首都ベルリンに寄っていますが、これは両大戦の結果、旧プロイセンの多くをポーランドが取ったからで、かつては現在一部がロシア領となっている東プロイセンまでドイツだった。

日本人はあまり意識しませんが、同じドイツとはいってもライン川のほうのフランスに近い西側と、ベルリンなど東側は違う文化です。ドイツ統一からまだ150年くらい。同じカトリックのミュンヘンを中心とするバイエルンとオーストリアが、どうして別の国になったのか、偶然の要素が大きかった。

地図で見るとよくわかりますが、ライプツィヒやドレスデンは、ミュンヘンやフランクフルトよりチェコのプラハのほうがよほど近い。プラハはオーストリアのウィーンよりも西にあって、意外とドイツに近いんです。モーツアルトとも縁が深い。第一次大戦前までプラハというのは、ドイツ文化圏の一大中心地でした。

したがって、同じドイツといっても違う文化であったり、今は別の隣国にもドイツ文化の影響が色濃く残っていたりする。島国の日本人には、なかなかわかりづらい世界です。

川口:本当ですね。旧東独でもこれだけの発見がありましたが、さらにチェコやポーランドへと東征すると、毎回、知らなかった歴史に圧倒されるところがあります。