2023年12月、全国の映画館で公開されたリドリー・スコット監督の『ナポレオン』。奇しくも北野武監督の『首』と同じく、映画冒頭にスクリーンに映し出されたのは“首”でした。フランス革命からナポレオンの台頭、そしてワーテルローの戦いに至る過程は、中世から近代に移行する世界史の大きな転換期を象徴する出来事で、この重要な時代の中心人物は間違いなくナポレオンです。

ナポレオンが指揮するフランス軍はヨーロッパの覇者となり、彼は英雄として君臨します。しかし、その栄光は長く続きませんでした。今回の記事では、独自の戦術でヨーロッパを席巻したナポレオンが強かった理由と、最終的に彼が直面した敗北の原因を探りたいと思います。

トゥーロン攻囲戦前のナポレオン

1769年、コルシカ島のイタリア貴族で生まれたナポレオンは、10歳のときにフランス本土の軍事学校で学びました。

フランス革命(1789年)が勃発したとき、ナポレオンは20歳でした。このときナポレオンは、フランスに編入されたコルシカ島の独立運動に参加しています。コルシカ島の国民衛兵隊中佐にまで昇進したナポレオンですが、親仏派だった一家は独立派から圧力を受け、島を脱出せざるを得なくなります。コルシカ島脱出後、ナポレオン一家は南フランスのマルセイユに逃れました。

1793年、24歳だったナポレオンはフランス革命軍に復帰。フランス南部にあるトゥーロン攻囲戦に参加します。

港湾都市であるトゥーロンは、フランス王党派や外国軍(イギリス・スペインなど)に支援された反革命軍の拠点となっており、フランス革命政府にとって大きな脅威でした。

そこで、革命政府はトゥーロン奪還のため軍隊を派遣。ナポレオンもコルシカ島での経験から砲兵将校として、革命軍に加わることになりました。前任者の負傷を受けて砲兵司令官代行に任命され、港湾都市攻略を担当します。

ナポレオンは港を見下ろせる戦略的に重要な地点を砲撃し、制圧する作戦を立案。ナポレオン自らが指揮し、トゥーロン奪還を成功させます。このときの軍事的手腕が認められ、一躍フランス軍を代表する若き英雄にのし上がったのです。

▲地図:lubovchipurko / PIXTA

フランス革命がもたらした自由のために戦う徴兵軍

フランス革命は、世界史における重要なターニングポイントの一つであり、そのなかで最も注目すべき遺産の一つが「徴兵制」の導入でした。この新しい軍事システムは、人権宣言と並んで革命の大きな成果と見なされています。

人権宣言の起草者であり、アメリカ独立戦争で活躍したラ・ファイエット侯爵は、バスティーユ襲撃後に解散された王の軍隊に代わり、義勇兵制の国民防衛軍を率いることになりました。

フランスはオーストリア、プロイセン、オランダ、スペイン、英国などから成る同盟との戦い(第一次対仏同盟戦争 / 1792-1797年)に直面しましたが、義勇兵と傭兵だけでは戦争に勝つのは困難でした。

そのためフランスは、西洋で初めての徴兵制を導入します。徴兵制のアイデアは以前から存在しており、革命家サン・ジュストは「革命の精神」(1791年)で、兵役を終えた者にのみ市民権を与えるべきだと主張しています。

戦況が悪化し、パリが同盟軍の脅威にさらされたことから、国民公会は軍制改革を実施します。この改革の中心となったのは「勝利の組織者」と呼ばれた、軍事大臣・大カルノーによる義勇兵の強制登録と士官任用制度の改革でした。この改革によってフランス軍は「民主主義の学校」と称されるようになり、革命の理念を広める役割を果たします。

当初、徴兵制の導入には多くの抵抗がありました。フランス全土で反対運動や暴動が発生しましたが、革命政府はこの政策を断固として推し進めました。結果として、フランスは大量の兵士を安く、効率よく動員することに成功します。一部の報告によると、兵士の数は全人口の4%にあたる約100万人に増加したそうです。

新しい徴兵軍は訓練や装備は不十分でしたが、祖国愛と自由のために戦うモチベーションはとても高いものでした。戦争の戦術も大幅に変化します。兵力を温存し、陣取り合戦に終始した今までの戦術は生ぬるいと断罪され、敵を殲滅して決定的な勝利を目指す方針が取られるようになります。

大カルノーとサン・ジュストは、敵に対して容赦ない戦いを指示。徴兵制に基づいた戦術の変革を推進したのです。この急激な軍事的変化に対応できなかった古い将軍たちは脱落し、新しい戦術に適応できた人物こそ、ナポレオン・ボナパルトなのです。

ナポレオンの出現はフランス革命がもたらした軍事的変革の象徴でもあり、まさに歴史の転換点を意味するものでした。