NHK大河ドラマ『どうする家康』の最終回「神の君へ」が放送される。松本潤さんが天下人・家康を演じた今回のドラマは、“ひとりの弱気少年が、乱世を終わらせた奇跡と希望の物語”として放送されてきた。その最後、豊臣方との決戦となった大坂冬の陣、その後の様相について、歴史家の濱田浩一郎氏が紹介します。
※本記事は、濱田浩一郎:著『家康クライシス -天下人の危機回避術-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。
戦国の“ゲルニカ”と称される「大坂夏の陣図屏風」
慶長20年(1615)5月8日、豊臣秀頼とその母・淀殿は大坂城の倉において自害して果てた。戦の勝者・徳川家康は、同日午後4時に茶臼山を出発し、夜10時には二条城に入る。大坂冬の陣の終結により、京街道は大混乱に陥った。約2万もの落人でごった返していたのだ。
徳川方としては、落人に厳しく対処するつもりであった。各所に逃れた落人は、男女や幼い者に限らず逮捕し、京都に差し出せと命じたのである。落人を匿うことは重罪とされた。大坂方の明石全登が枚方方面に逃走したとの噂もあり、地元の者に逮捕が命じられた。
大坂や京都だけではなく、高野山にも、大坂からの落人や徳川方に歯向かった一揆勢の残党が逃げ込んだとの情報があるとして、厳重に調査することが要求された。秀頼は大坂城で自害せず、薩摩に落ち延びたとの伝承があるが、薩摩島津氏にも落人の探索が命じられている。
さらには、落人の探索や逮捕だけでなく、慶長18年(1613)から慶長20年までのあいだに、地方から大坂に奉公に来た者があれば、氏名を報告すること、今回、再び領国に戻った者がいるならば、逮捕すること、行方知れずの者ならば妻子を捕らえておくことが命令されてもいる。
徳川政権から、西国や東北の大名に対して、落人狩りの通達が出された。これは、落人狩りを通して、徳川政権が大名(領国)への支配を強化しようとしたものと見ることもできよう。福岡藩の黒田長政が、家臣に命じて製作させたと言われる「大坂夏の陣図屏風」があるが、そこには大坂落城にともなう混乱の様子が生々しく描かれている。
奮戦する将兵・逃げ惑う敗残兵や市民・乱暴される婦女・夜盗の跋扈(ばっこ)・落武者の首を狙う者。戦の悲惨さが描写されていることから、本屏風絵は「戦国のゲルニカ」とも称される(ゲルニカとは、スペインの画家・ピカソが、ナチスドイツ空軍による無差別爆撃を描いた絵画)。
大坂方の死者は、一説によると、約1万8千人と言われる(10万人の死者が出たとの説もあり)。大坂城から逃走した落人は、具足を脱ぎ、裸で逃げたという。逃げ出した女性のなかには、捕らえられて、人身売買の対象となった人もいたろう。人買い商人が存在したからだ。人買い商人のなかには、そうした人々を海外にまで売る者もいた。
さて、徳川方としては、特に、逃走した大物牢人を捕縛したかったであろう。彼らは次々と捕縛された。例えば、長宗我部盛親。彼には、豊臣方が勝利すれば土佐一国が与えられることになっていたが、その夢は叶わず。5月11日に山城国八幡で捕縛。二条城に連行され、同月15日に、六条河原で処刑。三条河原で首を晒された。
5月21日には、大野治長の弟・治胤が京都で捕まっている。治胤は、大坂夏の陣において、堺を焼き討ちしていた。よって、堺奉行に命じ、治胤は火炙りの刑で殺されている。治胤のもう一人の兄・治房は行方知れずとなった。大坂夏の陣から34年経った慶安2年(1649)にも、いまだ治房生存の風聞があり、厳しく捜査せよとの幕命が出るほどであった。
細川忠興の次男・興秋(おきあき)は大坂方で参戦していたが、戦後は伏見に潜伏。本来ならば、彼も重罪であったろうが、忠興の徳川へのこれまでの功績により、無罪となる。しかし、忠興は我が子・興秋に自害を命じた。興秋は京都で切腹する。
豊臣秀頼の嫡男・国松と、娘(奈阿姫)も捕らえられた。秀頼と千姫とのあいだに子はいなかったので、側室の子であった。国松は大坂伏見町に潜んでいるところを見つかり、京都所司代のもとに送られた(5月22日)。そして、その翌日、六条河原で処刑されたのである。まだ、8歳であった。
幼子であっても、豊臣秀頼の男子ということで殺されたのだ。源頼朝や義経のように、助命され長じて後に反旗を翻すことを恐れたこともあろう。秀頼の娘・奈阿姫は、7歳であったが、千姫の助命嘆願が容れられ、尼とされた。彼女は、天秀尼と名乗り、鎌倉の東慶寺に住職として入ることになる。
家康の要求を呑まず豊臣家は滅亡へ
大坂方の者全員が厳しく処罰されたわけではない。秀頼の家臣であっても、戦後、幕府に仕えることができた者もいた。加藤正方は小姓組の番を務めているし、織田元信は近江国で2千石を与えられている(徳川方の人物となんらかの関係があった者が召し抱えられているという側面はあるが)。
大坂夏の陣において、徳川方として活躍した諸将には恩賞が与えられた。例えば、蜂須賀至鎮には7万石、松平忠明には5万石、藤堂高虎には5万石、本多忠政には5万石、井伊直孝には5万石、水野勝成には3万石が与えられている。
さて、徳川氏は、大坂冬の陣・夏の陣という二つの戦により、豊臣家を滅亡させることができた。しかし、豊臣家滅亡は家康の本意だったのだろうか。家康は小説やドラマにおいては、豊臣家を滅亡させるため、着々と準備し、謀略をもって臨んでいるように描かれてきた。まさに「狸親父」の面目躍如といった感じであるが、果たしてどうか。
戦前、家康は豊臣家に対し、秀頼の生母・淀殿を江戸へ人質として送ること、秀頼が大坂城を出ること、大坂城に籠もる牢人衆を追放することなどを要求していた。
しかし、豊臣家は、その要求を呑むことはなかった。そればかりか、軍備増強を思わせるような不穏な動きが目立ったのである。もし、豊臣家が、徳川方からの要求を呑んでいたら、戦は避けられたであろうし、秀頼は一大名に転落したかもしれないが、命を長らえた可能性もある。
大坂冬の陣の段階でも、徳川方は豊臣家を力攻めにして滅ぼすこともできたはずだ。しかし、それをせずに和睦を結んだ。これは徳川方が豊臣方に最後のチャンスを与えたものと解釈できよう。しかし、それさえも豊臣方は逃してしまう。
大勢の牢人衆を今さら追放することなどできない、対徳川強硬派の存在、豊臣家のプライドなど、豊臣家にもさまざまな事情があったのもわかるが、家康が提示した案を受け入れることができなかったことが、豊臣家滅亡の大きな要因であろう。