15~16世紀、当時の日本がアフリカや中南米諸国のように国を滅ぼされず、今日まで独自の文化・伝統を保持できた背景には軍事力、そして徳川家康の外交方針の転換があった。しかし、その期間に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどにもなる。情報戦略アナリスト・山岡鉄秀氏が、当時の状況を解説します。
※本記事は、山岡鉄秀:著『シン・鎖国論 -日本の消滅を防ぎ、真の独立国となるための緊急提言-』(方丈社:刊)より一部を抜粋編集したものです。
世界中に植民地を拡げたスペインとポルトガル
2021年に実施された中学校の新学習指導要領で復活するまでの数年間、中学教科書では「鎖国」という言葉が使われていなかったことをご存じでしょうか。
「鎖国」という言葉は、江戸末期の蘭学者・志筑忠雄(しづきただお)が、オランダ商館医だったケンペルの『日本誌』を翻訳したとき(1801年)に造語したのが始まりなので、徳川家光が「鎖国令」を発したと教えるのは正しくないということから、2017年の学習指導要領改定案で「鎖国」ではなく、「幕府の対外政策」という用語に変えられていたそうです。
また鎖国といっても、外国との貿易は、長崎を基軸としながら、松前・対馬・薩摩の各藩に対外関係の「口」を担わせる形で行われていたのだから、鎖国と呼ぶのはふさわしくないというのが、1980年ごろからの歴史学の流れだったようですが、教育現場から、「開国」を教えるのに「鎖国」という前段がないと指導しにくいという声が上がり、復活したそうです。
なぜ、当時の日本は鎖国を実施できたのでしょう? 大航海時代に日本が対峙していたのは、アフリカ・中南米、そして当時のアジアを次々に侵略蹂躙し、植民地に変えていったスペインとポルトガル。そして、オランダやイギリスも、アジアに東インド会社を作って支配を進める強力な軍事覇権国家でした。
当時、世界を二分していたカトリック国であるスペインとポルトガルは、世界中に植民地を拡げましたが、そのやり方は悪逆非道の極みと言えるものでした。彼らが異教徒をどう扱うべきかバチカンに問い合わせたところ、「異教徒は人間と見なさずともよい」とのお墨付きを得ていたことが、その背景にあります。
1452年、ローマ教皇ニコラウス5世が、ポルトガル人に対して「異教徒を奴隷にする許可」を与えたことで、奴隷貿易は正当化され、相手は人間でないと思えたからこそ、倫理的な罪悪感を全く持つことなく、徹底的に残酷になれたのです。
ポルトガルは、13世紀ごろには人口も少ない小国でしたが、モロッコからアフリカ西岸を回って次々と侵略を始めます。部族抗争を繰り返すアフリカの一方の部族にだけ武器を与え、敗れた部族を奴隷としてたたき売るという行為を繰り返しました。
ポルトガルはアフリカ南端を回り、14世紀にはインド、東南アジアを経て、1543年には種子島に鉄砲が、その6年後にザビエルが鹿児島に上陸するに至ります。
ポルトガルに後れを取って焦っていたスペインに取り入ったのが、イタリア人のコロンブスでした。スペイン女王イサベル1世の支援を得たコロンブスは、ポルトガルとは反対に大西洋を渡り、1492年に西インド諸島のサンサルバドル島に上陸します。
水や食料を提供してくれた原住民の純朴さと均整の取れた体を見て、コロンブスは「これは素晴らしい奴隷になる」と考えました。そして翌年、軍隊と軍用犬を満載して再びこの島を訪れると、原住民の村々を徹底的に破壊し、略奪・殺人・放火・拷問・強姦の限りを尽くしたのです。
近年、過激な左翼リベラリズムの影響で、キャンセルカルチャーの嵐が吹き荒れているアメリカでは、コロンブスの銅像が引き倒され、破壊されています。行き過ぎたキャンセルカルチャーは全く肯定できませんが、その背景に恥ずべき歴史への嫌悪があるのは事実でしょう。
中南米には古代から高度な文明が栄えていましたが、スペイン人によって無残にも滅ぼされてしまいました。1521年、メキシコ中央部に栄えていたアステカ王国は、スペイン人コルテスによって滅ぼされ、現在のペルー・ボリビア・エクアドルにまたがって栄華を誇っていたインカ帝国は、1533年にピサロによって滅亡させられたのです。
スペイン人は、これらの国々から莫大な金銀財宝を略奪し、本国に運び込みました。さらに、原住民を銀鉱脈の採掘に駆り出して強制労働を課し、大量の銀をヨーロッパに持ち帰りました。酷使され虐待された原住民の人口が激減すると、今度はアフリカ人が代替労働力として用いられることになり、奴隷貿易はさらに拡大したのです。
武力制圧の企図を挫かせた日本の軍事力
世界中でこうした悪逆な支配を拡大していたポルトガル人やスペイン人であるのに、なぜ日本では同様の支配ができなかったのか? 布教活動によって一部の大名をキリシタン大名にし、権益を得ることまではできたものの、どうして最終的に排除されてしまったのでしょうか?
それは、日本の軍事力が優れていたからです。火砲に関して言うと、1543年に中国商船に乗って種子島に漂着したポルトガル商人から買った2丁の火縄銃は、すぐに刀鍛冶の手で複製され改良されつつ、堺や近江などで瞬く間に大量生産されるようになりました。
日本には鉄も少なく、火薬の原料となる硝石は輸入に頼るしかなかったのですが、安土桃山時代から江戸初期にかけての日本の鉄砲所有数は、世界有数だったことは確かであるとされています。
もし、日本が軍事的に弱かったなら、アステカ王国やインカ帝国のようにいとも簡単に支配を許し、滅ぼされるか、それ以外の「非白人」と同様に植民地化されていたことは間違いありません。今の中南米諸国のようになっていたはずです。強い軍事力が、武力制圧を企図させない抑止力として間違いなく働いていました。