3年間も一軍未登板なのにファン投票で1位

1998年には最多勝や沢村賞を獲得するなど、ヤクルトの中心選手として活躍してきた川崎は、2000年のオフにFA権を取得。MLBのボストン・レッドソックスと中日ドラゴンズによる争奪戦の話題で、スポーツニュースは連日持ちきりとなった。

記者たちに追いかけられ、ろくに寝られなかった日々に終止符を打ったのは、中日・星野仙一監督(当時)からの「巨人だけには勝ってほしい」の一言だったという。

「当時はまだ日本人メジャーリーガーが少なかったですし、ボストン・レッドソックスでプレーした日本人がいない状況だったので、メジャー挑戦に向けて気持ちが傾いていたんですが、実際に星野さんにお会いしてみると、星野さんが持っている巨人への強烈な闘争心に共感させられるところがあって、それが中日入りの決め手になりました」

星野監督の力のある言葉は、日米のどちらでプレーするか決めあぐねていた川崎の心を大きく揺さぶった。

「優しく穏やかな表情で語りかけてくる言葉に惹き込まれていきました。グラウンドでの厳しい表情とのギャップや明瞭な言葉に魅了され、気づいたら承諾してしまうような状況になっていたんです」

星野監督からの直接の言葉が決め手となり、川崎は中日と4年契約を締結。星野が現役時代に背負った中日のエースナンバー、背番号20を川崎が背負うこととなったが……。入団後には想像だにしなかった土壇場が待ち受けていた。

当時としては破格の4年契約(3年間は年俸2億円、4年目は出来高制)を結び、中日に移籍を決めた川崎だが、加入初年度のオープン戦で右肩を負傷。3年間一軍登板なしの状況に追い込まれた。

普段は目の前にある状況をプラスに捉えるように心がけているという川崎だが、地道なリハビリを続けながら壮絶な痛みと向き合わざるを得ない日々に、心が折れてしまいそうなこともあったという。

「試合で投げられていないことに対して、いろいろなことを言われることもありましたけど、何よりもツラかったのは、大好きな野球を取り上げられてしまっていること。肩が痛すぎて、走り込みくらいしかやれることはない。痛みが少しでも減ってくれることを祈りながら、“思い描いた通りのボールを投げるにはどうしたらいいか?”を必死に考えて、毎日を過ごしていました」

▲現役を引退して20年経った今でも肩は思うようには上がらないという

中日に移籍して3年の月日が流れた2003年、「とにかくきつい日々」に追い打ちをかける出来事が起こった。オールスターゲームのファン投票の際に、一部の心無いファンがインターネットで川崎への投票を呼びかけ、移籍してからの3年間、一軍未登板の川崎が投手先発部門の1位にランクインした。

「川崎祭」と言われたこの出来事は、ファン投票のあり方に対して一石を投じ、翌年以降はシーズン成績による選出基準〔※投手は「5試合以上登板または10投球回以上」、野手は「10試合以上出場または20打席以上」〕が設けられることとなった。川崎は目の前の状況に戸惑いつつも、当時から恨みなどはなかったと話す。

「最初に票が伸びていることを知ったときは、“こんな状況でもまだ応援してくれる人いるんだ”とうれしかった。当時はインターネットのほかに、ハガキによる投票もあって、切手代を払ってまで僕に投票してくれた方がいることがわかったからです。さすがにお金出してまで、わざわざ嫌がらせはしないだろうなと思って……。

その年はオールスターに相応しくない選手だったので、僕は出場は辞退しましたけど、真摯な気持ちで応援してくれる人たちのために頑張ろうと思うことにしました」

落合中日の開幕投手になるも“誰にも言えない”

落合博満氏が新監督に就任した2004年、その初陣を飾る開幕戦(4月2日・ナゴヤドーム)のマウンドには川崎の姿があった。

中日へのFA移籍以降、右肩痛の影響で3年間も一軍登板がなかった川崎の起用は多くの人を驚かせ、2回途中5失点で降板することとなったが、広島の開幕投手の黒田博樹を攻め立てた中日打線の奮闘もあり、チームは逆転勝利(8対6)を収めた。

「年明け早々に、落合監督から電話がかかってきて、“開幕投手はお前で行くからな”と伝えられたんです。“なんで自分なんだろう…?”とは思いましたけど、別に断る理由もなかったので、その場で了承しました。監督は“嫁さんにだけは言ってもいいよ”と言っていたので、“チームメイトにも言っちゃいけないんだ”と解釈して、その日は電話を切りました」

落合監督の決断は、森繁和コーチなどの一部の者だけに共有され、チームメイトも開幕戦の当日に初めて知る選手がほとんどだったそうだ。

「落合監督からは“やっぱり投げられないとか、何かあったらすぐに言うように”と伝えられていて、春季キャンプに入ったあとも何かと気にかけてくださいました。時に話し込む場面もあったんですけど、まさか僕が開幕に向けて調整をしていようとは、おそらく誰も想像できないですよね。開幕戦が始まる30分くらい前、ブルペンに鈴木孝政チーフコーチ(当時)が入ってきて、“お前だったのか…!”と驚いていた姿が、今でも印象に残っています」

落合監督に率いられた中日は、この年のセ・リーグを制覇。落合の「何をしてくるかわからない不気味な采配」は、落合野球を語る要素の一つとして注目を集めることとなったが……。

「開幕の1週間くらい前に、ナゴヤドームのロッカールームでたまたま投手陣が集まってしまったことがあるんです。(投手陣のリーダーでもある)山本昌さんの“開幕戦は誰が投げるんだ?”という問いかけに、それぞれの登板予定日を答えていく流れになってしまって。

“もしかして憲次郎、開幕戦はお前か?”って笑いながら言われたときには、“まさか! 俺が投げるわけがないじゃないですか”と言って、ひとまずトイレに逃げ込み、会話の流れが止むまでじっと姿を隠していました」

▲山本昌投手に問い詰められたときは生きた心地がしなかったという