2022年10月5日、「最後の近鉄戦士」とも呼ばれた坂口智隆が、20年のプロ野球生活にピリオドを打った。坂口は右投げ左打ちの外野手として大阪近鉄バファローズ、オリックス・バファローズ、東京ヤクルトスワローズの3球団で活躍。

ゴールデングラブ賞4回(2008年-2011年)、最多安打1回(2011年)と華やかな結果を残した一方で、合併に伴う所属球団の消滅、大きな怪我、コンバートなどの大きな「土壇場」を乗り越えてきた坂口に、これまでの野球人生を振り返ってもらった。

※ニュースクランチ調べ

▲俺のクランチ 第24回-坂口智隆-

怪我を我慢するのも仕事だと思ってました

「僕自身は苦しいことがあっても、そこまで土壇場とはとらえてないですね。どこが土壇場だったかは、周りが勝手に決めてくれればいいかなと思います(笑)」

坂口の20年間におよぶプロ野球人生、客観的に見ても土壇場が多かったように見える。どのようなツラい場面があっても苦しいと思わなかったのか…? 坂口は優しい笑みを浮かべながら語り始めた。

「土壇場という言葉を聞いて、まず最初に思いついたのがオリックス・バファローズ(以下 バファローズ)時代に右肩を怪我したときですね。ダイビングキャッチで地面に激突してしまって、リハビリが長かったです。回復が僕の予想よりも遅れてしまってたので」

2012年5月17日。読売ジャイアンツとの交流戦で坂口は肩鎖関節の脱臼、さらに靭帯断裂と診断され、長期離脱を余儀なくされてしまった。かなりの大怪我だ。誰がどのように判断しても、プロ野球選手にとって土壇場と言える状況だろう。しかし、坂口の怪我に対する考え方は一味異なる。

「このまま駄目でもダイビングキャッチでの怪我だし、言い訳になるかなって考えてました。ちゃんとアウトにしてたし(笑)。あれがヒットだったら怪我し損やん…!って思うんですけど。怪我から復活できたら、それはいいストーリーになります。駄目だったとしても、それはそれでいいストーリーにすることはできます」

たとえツラい怪我であったとしても、捉え方次第なのだろうか? 坂口の痛みや怪我に対する捉え方に興味が湧いた。

「怪我はプロ野球選手だったらしょうがないんですよ。特に僕は怪我しやすい体質だったんで。でも、痛くても身体が動くのであれば、休むという選択肢は僕の中ではなかったですね。もちろん骨折してしまったら無理ですけど、耐えられるものは我慢するのも仕事だと思っていました」

たしかに坂口の現役時代を振り返ると、死球をもらって悶絶して交代しても、翌日には試合に出場していた。この覚悟があったから、プロ野球選手を20年間も続けることができたのだろう。

「痛み止めを試合前と寝る前によく飲んでましたよ。練習日だけは飲まないようにしてました。痛み止めの休肝日じゃないですけど(笑)。でも、一番の痛み止めは試合に出ているときのアドレナリンです。トレーナーさんと相談して、さまざまなテーピングも試しました」

あらゆる手段を尽くして試合に出続けていたのだ。もしも坂口が指導者だったら、怪我をしている選手の出場を止めるのだろうか。少し意地悪な気もしたが質問してみた。

「そりゃ、僕が指導者だったら選手生命を守るために100%止めますよ。指導者だったら止められるんですよ。けれど、休んでしまったことでプロ野球選手としての価値が変動してしまうことも事実なんです。

休んだことによってお給料に影響がでたり、レギュラーというポジションを失う場合もあります。僕はそれがイヤだったんです。ただし、怪我が酷くなってしまっても自己責任になってしまいますけどね。首は引退した今も痛いですし、上に向けることができません」

プロ野球の世界で活躍し続けるための厳しさが垣間見えた。自己責任の結果、坂口は現役生活を終えた今でも身体に痛みが残り続けている。それでも試合に出続けることが何よりも大事なのだろうか?

「(力強く)何よりも大事です。全てのプロ野球選手は自分が試合に出続けて、主力としてチームに貢献したいんですよ。だから2021年にスワローズが神戸で日本一になったとき、プレイヤーとしてはすごく悔しかったです」

▲こちらの質問に優しくにこやかに答えてくださる坂口氏