野球を続けていくのは無理だろうと悩む日々

その4年後の2006年には、古田が選手兼任監督に就任。正捕手育成が急務となっていたチーム事情もあり、「ポスト古田」の一番手と目され期待された米野は、出場機会を大幅に増やした。

「僕にとっては、レギュラー獲得に向けた大チャンスの年でした。たくさん失敗しましたけど、毎試合スタメンで起用してもらって、とにかく充実していたことを覚えています」

試合出場を重ねるなかで、「古田さんと違って、僕のリードに首を横に振る投手も多かったですし、長年、正捕手を務めた古田さんの偉大さを感じる場面はありました」と話す。だが、5月25日にはリック・ガトームソンをノーヒットノーラン(神宮・対楽天戦)に導くなど投手陣を牽引し、そのまま順調にスター街道を歩むかのように思われたが……。

レギュラー捕手として出場を続けた2006年の夏、突如として異変は訪れた。

「あるとき、投手に返球する際にボールが散らばることに気づいて……。“おかしいな”とは思ったんですけど、しばらくそのままにしていました」

その異変の正体がイップスだと気づいたのは、シーズン終盤、ナゴヤドーム(当時)での中日戦のことだった。

「試合の終盤に盗塁を試みたランナーを刺そうとしたら、ボールが上に逸れてしまって。延長戦に突入したあとも同じようなボールを投げてしまったときに、その症状に気がつきました」

この試合を機に、米野の出番は徐々に減少。掴みかけたはずの正捕手の座を、他の選手に譲り渡すこととなる。

「投げることへの不安はありましたけど、それでもまだ“俺のほうがやれる”という気持ちは残っていたんです」

翌年も、イップスの治療に励みながらレギュラー再奪取に向けて奮闘していたが、2008年には2軍の試合中に右手親指を脱臼骨折。米野の土壇場は続く。

「この頃から精神的に追い詰められて、試合に出るのが怖くなってしまって……。眠りが浅くてすぐに目覚めてしまったり、 朝起きたら憂鬱な気分で、“行きたくないな”と思いながら球場に出かけるような日々を過ごしていました。

もう捕手としてプレーするのは無理かもしれない……。肩の強さを評価されてプロの世界に入ったのに、それができないのでならば、野球を続けていくのは無理だろうと思ってました。自分としては、もう野球選手を辞めるつもりでいたんです」

2軍で過ごしていた2010年5月、米野は思い切って自身の気持ちを二軍監督に告げた。そこからおよそ1か月後、米野に西武へのトレードが告げられる。

「奇跡のグランドスラム」を放った日

鬱々とした日々を過ごしていた米野は、2010年のシーズン途中に西武へのトレードが決定。本来ならば、新天地での活躍に胸を躍らせるような状況だが、「もう捕手をやめるつもりだった」という米野は、さらに精神的に追い込まれ、ツラい日々を過ごすことになった。

2010年は一度も一軍に上がることなくシーズンを終えると、2011年もわずか3試合の出場に終わった。

「即戦力として呼ばれているはずなのに、まったく戦力になれていない自分の不甲斐なさを感じていました。“このまま現役を続けてもチームの力になれないだろう”と思ったので、自分から引退を切り出そうとしたんですけど、一方では引退を決めきれない自分もいました。いろいろと考えた結果、ひとまずはシーズン終了後に言い渡される戦力外通告を待ってみることにしたんです」

だが、何事もなかったかのように秋季キャンプが始まり、戦力外を通告されない状況に戸惑う日々を過ごしていた米野だったが、紅白戦で放ったホームランによって突如として転機が訪れる。

「僕の打撃を見た光山英和バッテリーコーチと渡辺久信監督(いずれも当時)が、“捕手を続けるよりも、手薄な外野手として勝負した方がチャンスがあるかもしれない”と言ってくださって、思い切って挑戦してみることにしたんです」

野球人生において「大きなターニングポイントだった」というコンバートを決めた米野は、この年の開幕一軍の切符を掴む。4月26日のソフトバンク戦では、9回2死満塁の場面で代打として起用され、当時、絶対的な守護神だったブライアン・ファルケンボーグ投手から逆転満塁弾を放った。

「数か月前には野球を辞めたくて仕方なかったはずなのに、このような活躍ができた。これでようやく西武の一員になれた気がしましたし、あまり打撃が得意ではなかった僕に、コンバートを提案してくださった首脳陣の皆さんには感謝したいです」

▲チームに関わる人々への感謝を忘れないことも大事です

「奇跡のグランドスラム」として今も語り継がれる名シーンには、チームに関わる人々のさまざまな思いが詰め込まれていた。それから数年が経ち、2試合の出場に終わった2015年の秋、米野は6シーズンを過ごした埼玉西武ライオンズから戦力外を言い渡される。

「(戦力外通告を)覚悟していましたが、僕が西武にやってきた頃と違って、まだまだ現役を続けたいと思いましたし、やれる自信もあった。もしこのまま引退したら、あとで後悔するだろうなと思ったんです」

そんなとき、北海道日本ハムファイターズからオファーをもらった。役割は選手兼任2軍バッテリーコーチ補佐。このオファーに応え、現役続行を決定。栗山英樹監督(当時)の発案で登録を外野手から再び捕手に戻し、新天地で再スタートを切ることになった。

「現役生活の最後に、一度は諦めた捕手に再挑戦してみたいと思ったんです。もし、自分で思うような手応えが得られなかったら、きっぱり引退しようと決めていました」

この年の日本ハムは、7月に球団タイ記録の15連勝を達成。ソフトバンクとのデッドヒートを制して4年ぶりのリーグ優勝と10年ぶりの日本一を成し遂げた。そんななかで、古巣の西武戦1試合のみの出場に終わった米野は、春頃には引退を決めていたという。

「球団は来季も契約してくださるとのことだったのですごく迷いましたけど、選手としては“そろそろ引き際なのかな……”と思って。中途半端な気持ちで続けるべきではないと思い、8月頃に正直な思いを球団に伝えました」

米野の意向を了承した球団は、この年の2016年10月に米野の現役引退を発表。いくつもの土壇場を乗り越え、ポジションを変えても野球を続けた米野は、日本一の達成に沸くチームとともに、17年間の選手生活に別れを告げた。