ダーウィンの「進化論」、コペルニクスの「地動説」、これらは当時の人々には全く受け入れられなかった。それも仕方のないことで、人間は自分の頭の中にあるものから、なんとか答えを見つけ出そうとする癖があるからだ。「自分の知らない世界はいっぱいある」と思うようにしたら、研究がうまく運ぶようになったと工学博士の武田邦彦氏は語る。
※本記事は、武田邦彦:著『幸せになるためのサイエンス脳のつくり方』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
裁判に負けて有名になったダーウィンの進化論
1925年、アメリカ合衆国テネシー州デートンの高校教師であるジョン・スコープスが、ダーウィンの『進化論』を生徒に教えたことで告発され、大きな話題となった裁判がありました。
当時、アメリカの南部は熱心なキリスト教徒が大多数を占め、「人間は神様によってつくられた」と子どもたちに教えていました。テネシー州の教育の場では、進化論を教えることを禁じる州法がありましたが、スコープスは進化論を勉強して、それを子どもたちに教えたのです。
「そんな異端なことを教えてはいけない。その教師は辞めさせるべきだ」と非難が相次ぎ、州法に違反したとしてスコープスは告発されてしまいます。
結局、スコープスは裁判で負け、有罪判決を受けました。それでも結果的に、この裁判によって進化論は大きな注目を浴びることになり、スコープスはある意味で目的を果たしたことになりました。
これに似た有名な事例があります。ガリレオ・ガリレイの「地動説」です。
ガレリオは17世紀のイタリアの自然哲学者・天文学者・数学者ですが、その頃、オランダで望遠鏡が発明されました。
ガリレオはすぐに望遠鏡を手に入れて天体観測をしました。望遠鏡で天体を見てみると、どうも動きがおかしいのです。
当時は、地球が宇宙の中心で、他の天体が地球の周りを回っているということが当たり前のように信じられていました。しかし、ガリレオはそうではなく、地球は火星や土星などと同じように、太陽の周りを回っているということに気づいたのです。
これ以前にも、ニコラウス・コペルニクスが「地動説」を提唱していましたが、証拠が不十分ということもあって受け入れられていませんでした。しかしガリレオは、さまざまな検証結果を示して「地動説が正しい」と提唱したのです。
ご存じのとおり、ガリレオの「地動説」は、宗教裁判にかけられます。
「宗教裁判のガリレオ」という画がありますが、「憔悴しきった宗教裁判のガリレオ」と言われるくらいに、ガリレオはこの宗教裁判ですっかり憔悴してしまいました。
この裁判の直後にガリレオが床に倒れてつぶやいた言葉が、あの有名な「それでも地球は回っている」です。
科学者は常に謙虚でなければならない
ガリレオは、私が尊敬している科学者のひとりですが、「それでも地球は回っている」という言葉に関しては、一般論とは違う角度で考えてみたいと思います。
私が科学者として常に悩み苦しんできたことのひとつに、自分の頭でいくら考えても「真理に到達しない」ということがありました。
若い頃の私は、がむしゃらに真理を追究していました。それでも、どんどん真理から遠ざかっていくような気がして、苦悩していたのです。ところが42歳のとき、私は「もしかしたら、この考え方が違うのではないか」と思ったのです。
「宇宙の真理」というものがあるとします。
宇宙の真理はとても大きな円で、私たちが知っている真理(人間の概念)というのは、この大きな円の中に位置する、とても小さな円でしかありません。
私たちが理解している範囲というのは、宇宙の真理のごくわずかなものです。ですから、私たちが考えることは当然、間違っている可能性が高い。ですが、人間というのは最初に教わった理論が正しいと思ったり、真理だと錯覚したりする「癖」があるのです。
「それでも地球は回っている」というのは、人間ガリレオという、とても小さな円のなかで言っていること。観測結果がそうだからといって、果たしてそれが本当に正しいと言えるのだろうか。正しく言うならば「それでも地球は回っている」ではなく、「私の観測では地球は回っていた」としなければならないのではないか――。
たとえば、平安時代の紫式部に飛行機が飛んでいるところを見せて「あれはなんですか?」と尋ねたら、「天狗」もしくは「もののけ」と答えるでしょう。
それはなぜかというと、私たち人間というのは、自分の“頭の中にあるもの”のなかから答えを探そうとするからです。
私たちが飛行機を見て、飛行機だと言えるのは「飛行機という存在」を知っているからです。紫式部の頭の中には飛行機という存在はないので、「空を飛んでいるなら、天狗か、もののけではないか」としか認識できないのです。
つまり、人間の知識や知恵というのはとても小さいもので、人間の判断というのは間違えることが多いということです。
もうひとつ例をあげれば、現代の私たちがUFOを見たとしても「あのような動きをする動力はない、だからUFOなんて存在しない」と思ってしまいますが、私たちの知らない動力が存在しているかもしれないのです(ここでの「UFO」は地球外生物による宇宙船の意)。
このような考え方をするようになってからは、私はどんなに奇妙なものを見ても、信じがたい話を聞いても「まだまだ自分の知らない世界がある。今は理解できなくても仕方がない」と思うようになりました。すると不思議なことに、実験や研究もはかどるようになったのです。
自分の概念とは小さいもの。だから、科学者が「これが正しい」というのは間違いで、傲慢なのです。科学とは「真理を追究する活動」ではありますが、科学者は常に謙虚でなくてはなりません。