富士山を登っているときに、目の前にスーツ姿で颯爽と駆け抜ける人間が現れたら……誰しもが驚くだろう。そんな普通ではない行動を平然とやってのけ、多数のメディアから熱い視線を注がれているのが、オーダースーツSADA代表取締役・佐田展隆だ。
ニュースクランチでは、スーツ姿でさまざまなチャレンジを続けている佐田に、困難なことに立ち向かえる理由や、目の前の仕事を好きになる大切さについてインタビューした。
あまりにも大きすぎる祖父と父の存在
あきらかに“普通”の社長とは異なるビジネススタイルを展開する佐田展隆。彼はどのような幼少期を送ってきたのだろうか。質問を投げかけると、開口一番にこんな言葉が出てきた。
「まず、私の人生の全ては、尊敬する祖父と父の存在がなければ語れません。2人から『とにかく人と違うことをしろ』と教えられ続けたことにより、世間一般が右を向いているときには、左を向くような人生を幼少期から送っています。
私がいたずらをして職員室に呼び出されるようなことがあっても、“そんなことしたらダメだろ”と言いながら、2人の表情は喜びに満ちていました。いつしか『おじいちゃんとお父さんに評価されること』が、私の中で基準のようなものになっていきました」
オーダースーツSADAの前身企業である「株式会社佐田」 を守り続けた祖父と父。今も憧れ続けている2人の人間性について、続けて語ってくれた。
「私が常識的な行動をすると、露骨につまらなそうな顔をするんですよ。ただ、友人を怪我させるなどの格好悪い行動をしたときには、ものすごい剣幕で怒ってくる一面もありました。そんなブレない芯の強さを持つ祖父と父はもちろん、常識的で私をいつでも受け入れてくれる祖母と母がいたおかげで、佐田展隆という人間が形成されていったのだと思います」
大学を選ぶときも父が通っていた一橋大学を選んだ。そこには、父への憧れとともに、認められたい気持ちが隠れていたという。
「父は、経営は“一子相伝”であるべきだという考えをもとに、三兄弟である私たちのなかで、一番ふさわしい者に会社を継がせると話していました。私にとって、後継者として選ばれることは、尊敬している父に認められることです。少しでも憧れの父に近づき、または追い越すためには、一橋大学で学ぶことは必須条件だったんです」
二浪を経験したものの、無事に一橋大学で学ぶ権利を得た佐田。入学後、父が入っていたスキー部の先輩から「息子さんの入学をずっと待っていた」と言われ、父の偉大さにあらためて気づく。それから充実した大学生活を送ったものの、卒業後すぐに後継者へなれたわけではなかった。
「一子相伝を受け継ぐためには、まずは“一般企業で成果をしっかり出さなければならない”と言われていたんです。私は、当然のように父の会社と同じ業種であるメーカーに絞って就活をしていました。世界規模の大手自動車メーカーから内定をもらっていたものの、少しでも父に近づくことを考えた結果、繊維を扱うメーカーへの就職を決意しました」
入社後は、どのようなことをしていたのかについても教えてくれた。
「研修を終えて希望の部署を聞かれたときに“一番しんどいところで働かせてくれ”とお願いしました。一刻も早く父から認められたい気持ちはもちろんあったのですが、ここは、祖父からもらった“迷ったら茨の道を行け”という言葉に従うタイミングだと思ったんです。
実際の仕事は、電車は始発と終電にしか乗らない毎日が続き、休日もほとんどありませんでした。ただ、そんな努力と成果を見ていてくれたのか、ついに父は私を後継者に選んでくれました」
代表取締役へ就任し、父の思いを受け継ぐことに成功した佐田。しかし、バブル崩壊の影響で、株式会社佐田は倒産の危機に陥っていた。数日前まで一社員だった新米社長は、どのようにして会社を黒字化へと導いたのだろうか。
「社会人としての経験があったおかげで、父とは違った視点で経営課題を解決できたのが大きかったですね。もし大学卒業後、すぐに後継者になっていたら、バブル崩壊で揺れる会社の基盤を支えきれなかったかもしれません。まさに『若いころの苦労は買ってでもせよ』という言葉を体現できたのではないかと思っています」
「詐欺師」と呼ばれた時期もあった
2008年、会社の再生へと貢献したのち、株式会社佐田を一度去った。しかし、東日本大震災の影響で再び会社が傾いたのをきっかけに、2012年に会社のトップへと復帰した。そこから「オーダースーツSADA」としての企業改革が始まったという。
「会社の立て直しをかけて、メインの卸売業から、小売に力を入れはじめました。具体的には、従来の直販工場とのつながりを活かし、『お試し1万9,800円の本格フルオーダースーツ』の販売をスタートさせました。ただ、当時は4万円のフルオーダースーツが話題になっていた時期だったことに加え、中国で作った製品であることが重なり、不信感を抱かれることもあったんです」
いくら品質を担保できたとしても、当時の紳士服業界のなかでは「made in chinaのスーツが日本で売れるはずがない」という考えが横行していたと話す。圧倒的な値段の安さに関しては、こんな言葉をかけられることがあったと話してくれた。
「Web広告で1万9,800円と打ち出したときには“詐欺師”“請求書が出る頃には0が一個増えているはず”などの声が直接届くようになりました。さらに、中国製のスーツを売ることに自信を失くしていく営業員が続出している現状をみて、いまうちに足りないのは知名度と信用度だと実感しました」
現在では、佐田自らを広告塔にしてメディアに引っ張りだこのオーダースーツSADA。開業当初は、どのような努力で知名度と信用度を上げていったのだろうか。
「まずは、スポーツチームの選手たちに体格に合ったスーツを提供して、ビジネスの場に出るためのサポートを始めました。すると、実際に使用した選手が使い勝手を評価してくれたおかげか、私たちのスーツを使いたいと連絡をくれるチームが徐々に増えていったんです。
そして、販売開始から3年が経った頃には業界紙から取材が来て、そこから全国紙やテレビなどからも声がかかるようになりました。気づけば、批判の声は聞こえなくなっていました」