1980年4月放送当時、新時代のウルトラマンとして注目を集めた『ウルトラマン80』の主役・矢的猛役でブレイクして以来、長きにわたり多くの作品で存在感を放ってきた俳優・長谷川初範。映画『南極物語』やドラマ『101回目のプロポーズ』など、さまざまな作品で名演技を残してきた。

今年に入ってからは『メイジ・ザ・キャッツアイ』『ヒストリーボーイズ』と舞台に2本立て続けに出演するなど精力的に活動。フレッシュな二枚目スターだった若き日から、風格あるベテラン俳優となった現在まで、常に役者としてのオファーが引きも切らなかった役者人生は順風満帆のようで、じつは波乱万丈。長谷川初範の生き方には、前向きに生きるヒントがたくさん隠されていた。

▲俺のクランチ 第66回-長谷川初範-

食べることも困り森光子に助けられた新人時代

まず、北海道・紋別市出身の彼が上京したきっかけからして、10代の彼にとっては土壇場だった。実家の事業の倒産で、予定していたアメリカの大学への進学が叶わず、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に入学することになった。

しかし、人生とは面白いもので、彼はそこから誰もが知る役者としての道を切り開いてく。長谷川初範の出世作は、1980年に放送された『ウルトラマン80』。出演のきっかけは、前年に放送された森光子主演のホームドラマ『熱愛一家・LOVE』という作品だった。

「じつは、決まっていた俳優さんが急に出られなくなって、駆け出しだった僕に声がかかったんです。役名の“長谷川和夫”は森さんのアイデア。森さんが親交のあった大スター・長谷川一夫さんをもじって、劇中で“カズオさん!”って森さんが僕を呼んだら面白いんじゃないかって」

大女優の森と出会うまでの新人時代は、俳優の仕事でまともにギャラをもらえず苦難の連続だったという。水上勉の推理小説を山﨑努と若山富三郎という名優二人で映像化した『飢餓海峡』が、長谷川のドラマデビュー作。当時の大手の制作会社の作品だったが……。

「倒産する寸前だったようです。ギャラを取りに行ったら“すみません。出る予定がないです”と言われて。結局は1年後に支払いがあったんですが、芸能界って大変な世界なんだなと痛感しました。『熱愛一家・LOVE』の現場でも、当時の所属事務所からもギャラがもらえず、食事代もなくて……。

そういうことが森さんの耳に入ったんでしょうね。ドラマのあと、森さんの主演舞台『おもろい女』に呼んでくださったんです。森さんが女性漫才師ミス・ワカナを演じられて、そこに弟子入りする片足を失った帰還兵という大きな役。昼と夜のあいだの休憩時間に森さんが稽古をつけてくださって。それは本当に贅沢な時間でした」

当時、森に教わった“舞台の知恵”は、今でも彼の中に息づいているという。あるとき、森のアドリブの芝居に困惑した長谷川が「台本に書いていないことを言わないでください」と楽屋に言いに行ったことがあった。

「森さんはニコニコされて、“毎日、同じことをしかめっ面でやるんじゃつまらない。お客さまは、舞台の上の役者のキラキラしてる姿を見たいの。お前自身が自由に、楽しそうにやることが大事なの”って。当時はピンとこなかったけれど、そこから何十年してから、やっとわかるようになりました。

でもその頃、森さんに“初範はまだ芝居は下手だけど、センスがいい”と言ってもらえたことは、僕にとって大きな自信でお守りのような言葉でした」

ウルトラマン役は理想の役者像とはかけ離れていた

その後、いよいよ『ウルトラマン80』の主演が決まり、一躍ブレイク。『熱愛一家・LOVE』を見たウルトラマンのプロデューサーの満田かずほ〔※「かずほ」は正式にはひらがなではなく禾斉(のぎへん+さい〕に呼ばれて、どんな役か知らずに面接を受け、見事に主人公の座を掴んだことは、ウルトラマンマニアのあいだでは有名なエピソードだ。

「“なんの作品ですか?”と聞いたら、満田さんに“ウルトラマンだよ!”って怒られてね。いま思えば、その面接も森さんが推薦してくれたんじゃないかな。ただ、僕自身は今村昌平監督のところで手塩にかけてもらって、そのあとに山﨑さんや若山さんとご一緒して、お二人のような俳優になりたいという理想を持っていたから、ウルトラマンとのギャップに“ちょっと考えさせてください”って…(笑)」

じつは、高校時代にアメリカのオレゴンに留学経験のある長谷川。その当時の『ウルトラマン』にまつわる、ある思い出があった。そのことも彼をすんなり受け入れられない心境にさせていたという。

「留学先の友達のお姉さんの家に遊びに行ったとき、そこの子どもたちが初代『ウルトラマン』の吹替版を見ていたんです。その吹き替えがガチガチな言い回しで、それを見て3~4歳の子どもたちがブーイングしてたんです。だから、自分がやるときには、アメリカ映画みたいなナチュラルな芝居でやりたくて。監督からは時々“カチッとした芝居をしてくれ”と言われたんだけど、“それは無理!”と断ってました」