欠場している間も盛り上がる選手権

腕の手術を終えて退院してからは、可能な限り試合会場に行くようにしていた。何しろ両腕が満足に使えない状態なので、何か手伝えるというワケでもないのだが、それでもお客さんの前には姿を見せ続けることが、あの時の自分にできる精一杯のお詫びだった。

一方、自分の返上によって空位となったデスマッチ選手権は、12月の横浜文体で行われた王者決定戦で、沼澤を下した貴が返り咲いた。

こうして新王者となった貴に、2007年の年明け早々に噛みついたのが宮本裕向だった。1・2後楽園大会のメインで行われた、8人タッグに出場した宮本は、後にアメリカのデスマッチ王と呼ばれるようになるMASADAから決勝のフォールを奪ったのだ。

前の年にデスマッチ・デビューを果たしてから半年。宮本にとっては後楽園でのメインで、自らが勝ち取った初の白星だった。

元FMWの選手たちによって旗揚げしたWMFでデビューした宮本は、翌年に旗揚げした666に移籍。この試合の時点でまだキャリアは3年半足らず、年齢も24歳の若手選手だった。

宮本はこの試合の3カ月前に、リアルジャパンプロレス後楽園大会で行われた総合格闘技ルールのトーナメントで優勝していた。しかも、かつて暴走族だった宮本にとって、自分の喧嘩の強さを試すためのチャレンジだったので、格闘技用の練習はほとんど行わなかったというから驚きだ。

宮本の武器は恵まれた運動能力から繰り出す飛び技とスピード。MASADAを仕留めたムーンサルトも、矢継ぎ早に連打で繰り出したものだった。

さて、後楽園大会で勝利を収めた試合後に、貴のデスマッチ王座挑戦をアピールした宮本だったが、客席からは「まだ早い」という声も飛んだ。当時の宮本はまだデスマッチで勝ち星を上げることが少なかったので、当然と言えば当然の反応だ。

デスマッチ王座にチャレンジする宮本裕向

そこで、誰もが納得する結果を出してみろとばかり、月末の桂スタジオ大会で6人タッグ、翌月の大阪大会でタッグマッチと、貴との連戦が組まれたものの、宮本は直接フォールを奪われての連敗。

しかし、もはや後がなくなった状況で迎えた2月26日の後楽園大会で、宮本はWXさんからフォール勝ちを奪う。しばらく王座からは離れていたとはいえ、元王者であるWXさんからの勝利は、デスマッチ王座挑戦には十分な実績だった。

こうして翌月の3月14日の後楽園大会で、貴対宮本のデスマッチ選手権が正式決定する。とはいえ、この時点での実力は貴の方が明らかに一枚上。宮本には若さならではの勢いがあるとはいえ、デスマッチ選手権としてはやや弱いカードに思えた。

こういう場合、挑戦者の側が実績や実力を覆す可能性を期待させる試合形式を提案できるかも重要になってくる。自分に言わせれば、初挑戦なのに王者に試合形式を委ねるような選手は、試合前の時点で負けている。

そして、宮本は月末に行われた記者会見で、前代未聞の試合形式を提案する。それはアイデアにはいささかの自信がある自分も、「やられた!」と悔しさを感じるほど斬新で、しかも宮本の勝利の可能性も引き上げる、デスマッチ史上に残る見事な試合形式だった。