大日本プロレスの看板レスラー・伊東竜二選手。試合中の大怪我というプロレス人生初の挫折を経験したとき、いったいどのように自らを奮起させていったのでしょうか? 主戦場としているデスマッチを、リングの外から見ることしか出来ないとき、何を感じていたのかを語ってもらった。
※本記事は、伊東竜二著『デスマッチドラゴンは死なない』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。
「ベストマッチはどの試合ですか?」
そんな質問に対する模範解答は、「次の試合がベストマッチになるよう頑張ります」という答えだろう。本気でそう思えなくなったら、少なくとも第一線で闘い続けることはできない。
だが、ワーストマッチは違う。これはこの先に更新してはいけないものだ。だから「生涯ワーストマッチは?」と問われれば、自分は今後のプロレス人生への戒めの気持ちも込めて、2006年9月10日に横浜文体で行われた、佐々木貴とのデスマッチ選手権と答える。
自分はデスマッチを始めた時から、絶対に怪我をしないことを自分に課してきた。もちろんデスマッチをやっていれば、蛍光灯や有刺鉄線で体を切り刻まれる。血は出なくてもあちこちを痛めることもある。しかし、次の試合を休まずに済むレベルのものならば、そんなものは自分にとっては怪我のうちには入らない。
自分たちがやっているのは、通常ルールよりも危険で怪我のリスクが高いデスマッチだ。そんなデスマッチでお客さんが悲鳴を上げる試合をした後に、自分の足で控室に戻り、血だるまで試合後の売店に立って、翌日も当たり前のように試合をする。
そんな当たり前ではないことを、当たり前にやり続けることができるから、自分たちはプロを名乗ることができる。
デスマッチで怪我をするヤツは馬鹿だ…
見るからに危ないことをやって、大怪我をして救急車で運ばれるのは、素人にでもできることだ。だから自分は「デスマッチで怪我をするヤツは馬鹿だ」と言ってきた。そんな自分がデスマッチで長期欠場が必要な怪我を負ってしまった。まったくもって間抜けにもほどがある話だ。
もちろん、プロレスでは試合中の何でもないような動きの中で、大きな怪我を負ってしまうこともある。むしろ、そういうケースの方が多かったりもする。
しかし、自分の怪我は誰が見ても危険な技を失敗した結果だ。これはデスマッチファイターとして、最もやってはいけない失敗だった。挙句の果てに防衛戦をすることもできず、ベルトを返上することとなったのだから、情けないにもほどがある。対戦相手の貴にも申し訳ない限りだ。
「最後のドラゴンスプラッシュまでは、本当に素晴らしい試合でしたよ」
入院中だった自分に、そんな慰めの言葉をかけてくれる人もいた。
たしかにそうだったかもしれない。しかし、現実は一つしかない。自分はあのドラゴンスプラッシュを失敗して、大怪我を負ってしまった。
この大失態を取り戻すには、1日も早く怪我を治して復帰するしかない。こうして半年に及ぶ、プロレス人生初の長い欠場生活が始まった。