「天職はデスマッチファイター」。そう言い切れる自分は幸せ者だと話す、大日本プロレスの伊東竜二選手。彼がいかにして「デスマッチファイター」という天職を得たのか、そして過酷なデスマッチを続けているのか…、その始まりを赤裸々に語ってもらった。

※本記事は、伊東竜二著『デスマッチドラゴンは死なない』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。

知られざる「本当のデスマッチデビュー」

自分のデスマッチデビュー戦が行われたとされている後楽園大会。その前月の5月7日に、大日本プロレスは岩手県の一関市で大会を開催した。

滝沢村でも盛岡市でもなかったが、出身地である岩手県での開催ということで、自分はメインのタッグマッチに出場することが決まっていた。

パートナーはWXさんで、対戦相手はマイク・サンプラス&マッドマン・ポンド組。自分以外の3人はデスマッチファイターだ。そして大会の数日前に発表されたカードには、さりげなく“デスマッチ”と記されていた。

何しろ自分にとっては初のデスマッチである。このような場合、カードを決めていた登坂部長から、「デスマッチできるかな?」くらいの、相談なり打診があっても良さそうなものだが、自分がこのカードを知ったのは雑誌の記事だった。

ただ、もしも事前に「できる?」と聞かれていれば、「できます」と答えていた。

相変わらず積極的にデスマッチをやりたいとは思っていなかった。ただ、セコンドとして間近でデスマッチを観ているうちに、「俺にもできるんじゃないか?」とも思い始めていたのだ。

「やりたいとは思わない」と「やりたくない」は、似ているようでいて大きく違う。それに「できるんじゃないか?」を、実際に試したいという思いも自分の中で膨らみつつあった。登坂部長はそんな自分の心中を察した上で、あのカードを組んだのかもしれない。

そんなこともあって、初めてのデスマッチだったにもかかわらず、わりと淡々とした精神状態で一関大会当日を迎えた。

自分でも不思議なくらいに恐怖心はなかった

有刺鉄線も痛いだろうが、通常ルールのプロレス技も十分に痛い。刺さったり切れたりする痛みは、殴られたり蹴られたり投げ飛ばされるのとは異質のものだろうが、耐えられないほどではないだろうと思っていたのだ。

自分でも不思議なくらいに恐怖心はなかった イメージ:PIXTA

試合形式は有刺鉄線ボードデスマッチ。開場前にいつもように、ボードの作成にとりかかる。いつもと違うのは、自分が作っているこのボードに、今日は自分が叩きつけられてしまう可能性が高いことだった。そう考えると有刺鉄線の針がいつもより尖っているように見えた。ただ、自分でも不思議なくらいに恐怖心はなかった。

そんな感じで有刺鉄線ボードを作っていると、珍しく深刻な表情をした小鹿社長が話しかけてきた。

「お前、今日は誰とやるんだ?」
「メインでWXさんと組んで、相手はサンプラスとポンドです」
「その試合はメインでデスマッチだけど大丈夫か? アレだったら山川か小林に代わってもらってもいいんだぞ」

どうやら小鹿会長は、唐突にデスマッチ・デビュー戦が組まれた自分を、心配してくれたようである。

同じ岩手県とはいえ一関市は故郷の滝沢村から電車で2時間の距離。この大会には家族も友人も来ていなかったし、さりげなく発表されたカードだったので、マスコミの取材もなかった。

だから自分が「だったら代わってもらっていいですか」と答えていたら、おそらくカードは変更になっていたと思う。そうなっていたら、その後の自分のプロレス人生、そして大日本の歴史は大きく変わっていたことだろう。

しかし自分は「大丈夫です」と答えた。練習生時代に閑散とした盛岡大会の会場で、「この会社は大丈夫か?」と問われた時には言えなかった、「大丈夫です」という言葉が、あの時は何の躊躇もなく口から出た。

小鹿社長は「そうか」と言うと、登坂部長と何やら真剣な表情で話し合いを始めた。そして今度は登坂部長が近づいてきて、こう言われた。

「急な話だけど頑張ってね」

こちらにも「大丈夫です」と答えた。こうして、さりげなく発表された自分のデスマッチ・デビュー戦は、マスコミの取材が一社もなかった一関大会で、人知れず決行されることとなった。