大人は正しさより都合を選ぶ悪魔だ

そんな私の身体はとっくに限界を超えていた。学校が終わり、母が待つ車に戻った瞬間、張り詰めていた糸が切れたように泣き崩れた。声を上げて泣き喚き、暴れるように涙をこぼす私の隣で、母は何も言わずただ運転を続けていた。そんな日々だった。

ある日、先生に呼び止められた。

「生徒達から聞いたけど、体調良さそうなんだって? それなら朝から学校に来なさいよ」

その言葉が胸の奥に深く突き刺さった。人に心配をかけまいと、無理やり明るく振る舞っていただけなのに。そう思われていたのかと思うと、言葉が胸につかえて何も言えなかった。誰が言ったのだろう。私が友達と思っていた人達も、きっと、私を怠け者だと思ったのだろう。そっか、そうだったのか。だけど、病気のことを唯一打ち明けた大人にはせめて味方でいてほしかったのだ。それだけで、きっと違ったのに。

初めて学校のカウンセリングを受けた時、「私たちには守秘義務があるからね。ここで話したことは誰にも言わない。何でも話していいのよ」と言われ、初めて家族以外の人に大人とうまく付き合えず悩んでいることを打ち明けた。少しだけ心が軽くなった気がした。けれど次の日、別の大人に伝わっていることを知った。事情があるにせよ、守秘義務とは、なんだったのだろう。

撮影:梁瀬鈴雅

症状は悪化していき、今度は医師の勧めで心理室を訪れた。「朝起きられないのが辛い」と話すと、「朝起きれないなら、夜早く寝るといいわよ」と優しく言われた。そんなこと、小さな子供でもわかるだろう。病気の知識を持った大人にも、私の苦しみはただの夜更かしの怠けだと思われているのだろうか。その言葉を聞いた瞬間、心のシャッターは音を立てて完全に閉じた。

この時、私は思ってしまった。大人は正しさより都合を選ぶ悪魔だ、と。

「卒業生の梁瀬です」

軽く昼食を済ませてカフェを出た。学校に着くと、急に不安になった。卒業生がいきなり押しかけてきて、きっと迷惑だろう。もう私のことなんて、誰も覚えていないかもしれない。そんな考えが頭の中をぐるぐる回って、なかなか足が前に出なかった。それでも意を決して、校門の横にいた警備員さんに声をかけた。なんと言えばいいのか少し迷って、「卒業生の梁瀬です」とだけ伝える。

撮影:梁瀬鈴雅

「白井先生のお客様ですね。少々お待ちください」

穏やかに返されたその声に、張りつめていた心が少しだけほぐれた。先生を待つ間にも、子供たちの元気な声が飛び交う。警備員さんと交わされるその挨拶が、なんだか温かい。そんな様子を見ているうちに、白井先生が現れた。急に差し出された手を見て思い出す。白井先生は、いつも必ず握手で挨拶をする人だった。

先生のあとを追うように、数人の子どもたちがゾロゾロと寄ってきた。きっと白井先生が“先輩がくる”と伝えてくれていたのだろう。子どもたちは好奇心に満ちた目でこちらを見ていて、疑いや遠慮の気配は全くなかった。その素直なまなざしに、少しほっとした。

撮影:梁瀬鈴雅

「握手してー!」と次々に手を差し出された。この子たちは、私がアイドルだということを知らない。ただ、同じ学校の“先輩”として、いつものように握手で挨拶しているだけだ。少し戸惑いながらも笑って応じながら、懐かしい校内を子供たちと一緒に歩いた。

「誰か会いたい先生はいる?」と聞かれて、すぐに顔が浮かんだ。

「さいちゃんに会いたいな」

さいちゃんは、1・2年生の時の担任だ。気づけば、みんなが“さいちゃん”と呼ぶようになっていた。「さいちゃん、最近痩せすぎじゃない?」と保護者の間で話題になり、私たちは「迷惑かけすぎだ」と親に叱られたこともあった。卒業してからも、さいちゃんは私のことをずっと気にかけてくれていたらしい。病気を心配して、体調を度々気にしてくれていたと、母が教えてくれた。

撮影:梁瀬鈴雅

教員室にさいちゃんは不在だったが、他の先生達は温かく迎えてくれた。白井先生がさいちゃんを探しに行ってくれている間、ずっと後ろをついてきてくれた子どもたちと話した。

「誰探してるのー?」

「齋藤先生だよ」

この子たちが“さいちゃん”と呼んでいるのかは分からないし、教育に良くない気がしたので「齋藤先生」と呼んだ。「齋藤先生ってだれー?」と言われて戸惑っていたら、「齋藤主事なら知ってるけど!」と誰かが言い、みんなで笑い出した。知らない間に、いちばん偉い人になっていたらしい。

「えー!主事になったんだね。私の担任の先生だったんだよ」と言うと「どういうこと?」と首をかしげられてしまった。主事という言葉の意味が分かっていないのか。小学生になんと説明すればいいのか分からず、思わず「昔はそんなに偉くなかったんだよ」なんて言ってしまった。

▲幼少期の頃の写真

そんなことを話しているうちに、齋藤先生が現れた。子供たちは勢いよく駆け寄り、無邪気に抱きつきながら「ねえねえ、この人がね、“齋藤主事は昔偉くなかったんだよー”って!」と言った。

最悪の再会だ。けれど先生は笑いながら言った。

「偉くないよ。私はいつだって偉くないよ。主事だって偉いわけじゃないよ。たまたまなっちゃったんだよ」

昔と変わらないさいちゃんだった。

久しぶりに会った人には、活動のことを尋ねられることが多いけれど、さいちゃんは一切聞かず、ただ今の私の体調を心配してくれた。業務が沢山あるさいちゃんとは、ほんのわずかな時間しか話せなかったが、その短い間で優しさがひしひしと伝わってきた。「また帰るとき教えてね。お見送りに行くから」との言葉を最後に別れた。