長州力がいまジャンボ鶴田について語る!
帰京した鶴田は、長州戦当日の8月5日午前8時25分に東京・信濃町の慶應大学病院に入院。診断の結果は変形性肘関節症急性悪化と遅発性尺骨神経麻痺で、同日午後1時30分から約3時間にわたる手術を受けた。右足は右膝打撲による膝関節血種で手術の必要はなく、物理療法で済んだ。
長州VS鶴田が急遽中止になった大阪城ホールでは、善後策として天龍、カーン、谷津、ジャイアント・キマラの4人の中から観客の投票で長州の対戦相手を決めると発表。投票の結果、長州VS谷津のジャパン同門対決となり、勝利した長州は「もう馬場、猪木の時代なんかじゃないぞ! 鶴田! 藤波! 天龍! 俺たちの時代だ!」と俺たちの時代を高らかに宣言。そこに新日本を離脱したスーパー・ストロング・マシンが出現すると、長州は「俺はこういう状況を待っていた。マシン、俺とやろう!」と右手を差し出してガッチリ握手。それはプロレス新時代到来を告げるような光景だった。
さて、病床の鶴田である。右肘と右膝の負傷は大事に至らなかったが、血液検査で母子感染のB型肝炎のキャリアだということがわかったのだ。ウイルスを撃退するために86年後半頃からインターフェロンの投与を開始したという。そのB型肝炎が発症したのは92年7月のこと。それまで鶴田はこうしたハンディの下で、長州とのシングル、天龍との鶴龍頂上対決、さらには三沢光晴、川田利明、小橋健太(現・建太)らの超世代軍の高い壁となり、怪物的強さを発揮していたのである。
さて、85年8・5大阪城ホールで流れてしまった頂上決戦は、ジャパン自主シリーズ『ニューウェーブ・イン・ジャパン』第3戦の11月4日、大阪城ホールに延期された。ファンの間では「どうせ両者リングアウト引き分けがいいところ」などという冷めた声も出ていたが、それを払拭するために両者リングアウト引き分けを認めない完全決着ルールに決定。これが発表されるや前売りチケットが伸び、9500人のファンが詰めかけた。
結果を先に書いてしまえば、60分フルタイム戦っての時間切れ引き分けで、結局は決着がつかなかったわけだが、この試合は「鶴田の底知れぬ強さが長州を呑み込んだ」として伝説になっている。
この記事がアップされた今日5月13日は、奇しくもジャンボ鶴田の没20年にあたるまさにその日だ。拙著『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』では、鶴田と長州の60分間の激闘を、試合経過を交えながら徹底的に再検証。さらに今まで語ったことがない大学のレスリング時代の鶴田の思い出も含めた長州力のインタビューも掲載している。最強怪物王者に敬意を表して、ぜひご一読いただきたい。