元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、“ミスター・プロレス”として一時代を築いた天龍源一郎さんに、『天龍革命』の真相について聞いた。

天龍に募っていった鶴田への鬱憤

▲リングの内外でマイペースだった鶴田に天龍の苛立ちは募っていった

天龍が鶴田と相容(あいい)れなくなったのは、86年6月7日の高松市民文化センターにおける、鶴龍コンビVSザ・ロード・ウォリアーズだったとされる。

「ほらほら、いつまでも寝てないで起きて!」

試合後、鶴田はホーク・ウォリアーに敗れた天龍の髪を引っ張って起こそうとした。

その時、天龍は「こういう俺みたいにひとりで相手の技を受ける奴がいるから、お前がいいカッコできるんだよ、この野郎! 金輪際、思いやりのないお前のお守りをするのは嫌だ!」と思ったという。

しかし鶴田への不満が芽生えたのは、実はもっとまえのことだ。全日本の社長が馬場から松根光雄に代わって新体制になり、リング上も馬場に代わって鶴田をエースにしようという路線になった頃からだった。天龍は新体制のブッカーに就任した佐藤昭雄の改革に戸惑う一方で、トップとして全日本を引っ張っていこうという気概が見えない鶴田に物足りなさを感じたという。

「ジャンボに“会社のためにはこうしたほうがいいって馬場さんに言ってよ”とかって言うと、“源ちゃん、そんなことは俺もとっくにわかってるんだよ。でも、そんな簡単にはいかないんだよ!”って怒ったからね。ジャンボは諦めちゃっていたのかな」

この天龍の苛立ちに対して、「リングの中ではメインイベンターとして、しっかりと責任を持って試合をするけど、プロレスの会社の社長になろうなんて気はまったくないんだよ」というのが鶴田の姿勢である。

それは一貫して変わらず、85年1月に長州がジャパンとして全日本に乗り込んできて、「もう馬場、猪木の時代なんかじゃないぞ! 鶴田! 藤波! 天龍! 俺たちの時代だ!」と俺たちの時代を高らかに宣言したあとも鶴田はこう言っていた。

「僕が考える俺たちの時代は、あくまでもリング上。“テレビの主役はBIではなく鶴田、長州、天龍、藤波だ”という意識ですよ。それがマッチメークや経営にまで及ぶものではない。それまで含めてと言うなら“俺たちの時代はない!”としか言いようがないね。俺たちはオーナーではなくレスラーなんだから、マッチメークなどの無言の力を否定できないけど、とにかく試合で俺たちの時代を表現するしかない。それ以上を望まれたら“俺たちの世代に、俺たちの時代はないよ”ってことですよ」

▲鶴田と藤波がリング上で向き合う日はついに訪れなかった