「バレエ」はイタリアで生まれロシアで成熟した

スポーツの「バレー」はvolleyballであるが、西洋の芸術舞踊のほうはballetであって、「バレエ」と表記される。ルネサンス期に淵源を持ち「イタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで成熟した」といわれる。

イタリア語の動詞で、踊ることを意味するballareが語源で、ダンスは舞踊全般であるのに対して、観客を対象とする劇場芸術を指す。イタリアの宮廷では宴会などの余興に、詩の朗読や演劇や音楽が盛んに行われたが、そのなかで、バロ(Ballo)と呼ばれるダンスが生まれた。

バレエがひとつの芸術分野らしくなったのは、フィレンツェからフランス王家に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスの宮廷でのことである。

とくにルイ14世は、子どものときからバレエに熱中し、自分も踊り「太陽王」という愛称も、太陽神の役を踊って評判になったことからついている。

▲ルーブル美術館中庭のルイ14世乗馬像 イメージ:PIXTA

王立舞踏アカデミーも創立した。五つの足のポジションは、このころに舞踏教師ピエール・ボーシャンが定めたものである。

そしてルイ14世の没後あたりから、宮廷から劇場に移り、プロのダンサーが現れる。またフランスではグランド・オペラが流行ったが、ここでは長いバレエが挿入されていた。

だから、たとえばリヒャルト・ワーグナーが『タンホイザー』をパリで再演したときには、バレエの場面を書き加えたのである。

しかし、クラシック・バレエといわれるものが完成したのはロシアである。ピョートル・チャイコフスキーの『白鳥の湖』など3部作を振りつけたマリウス・プティパも、フランス人だがロシアに活躍の場を見いだした。

物語とは少し外れても「ダンス」として見せるための場面が増え、高度な技法が開発され、ダンサー自身が動きやすいのと同時に、複雑な動きが観客に見えやすいように、丈の短いクラシックチュチュが考案された。

▲クラシックチュチュ イメージ:PIXTA

さらに、モダンバレエというのは、型にはまった振付も存在せず、衣装もさまざまである。ミハイル・フォーキンが、モダンダンスのイサドラ・ダンカンに触発されて、新しいステップや民族舞踊を取り入れた振付を、1909年にパリで創立したバレエ・リュスで成功した。

さらに英国のアントニー・チューダーや、ミュージカルの振付で知られるジェローム・ロビンズ、フランスのローラン・プティ、モーリス・ベジャールらが主だった担い手である。

※本記事は、八幡和郎:著『365日でわかる世界史』(清談社Publico:刊)より一部を抜粋編集したものです。