「歴史を書いた」ヨーロッパ人や中国人

権力者が変わっていくなかで、歴史を持った人たちが登場します。のちに「中華帝国」を名乗る人たちとヨーロッパ人です。「中華帝国の歴史観は司馬遷が作り、ヨーロッパ人の歴史観はヘロドトスが作った」といわれます[岡田英弘:著『歴史とは何か』文春新書/2001]

▲中華帝国の歴史観を作ったとされる司馬遷

日本人が、ギリシャに始まるヨーロッパと中国を世界史の中心と勘違いしてしまうのは、彼らが最初に「歴史を書いた」からです。ヨーロッパ人や中国人は、人類の曙からヨーロッパや中華帝国が、世界の中心であったかのように書いています。最終的に文字を持つ彼らが勝ったから、好き勝手に書いているのです。

本当は中央ユーラシアの方が、中国より強くて豊かな時代が長かったのですが、いかんせん中央ユーラシアの人たちで、文字を持っているのは少数でした。13世紀に「世界史を作った」チンギス・ハーンでさえ文字を知ったのは1204年でした。

歴代中華帝国の歴史を概観すれば、中央ユーラシアの北方騎馬民族に対して、負けている時期のほうが長いとわかります。さらに言うと、中華王朝が統一した時期すら短く、動乱状態の方が長いのです。

たとえば、漢王朝(前漢:紀元前206年~後8年、後漢:25年~220年)は「漢字」や「漢民族」などの言葉にその名を残し、中華帝国を代表するかのように思われています。ところが、その漢王朝、前漢の初代皇帝である劉邦からして、北方騎馬民族の匈奴に朝貢し、毎年大量の貢物を差し出して、ようやく国の安全を保っている有り様でした。

その後、漢が滅ぶと三国時代(220年~280年)の大動乱です。三国時代を統一した晋(265年~420年)も安定せず、五胡十六国(304年~439年)の動乱に突入します。5つの民族が中国本土を荒らしまわって、次々と国が浮かんでは消えたので、五胡十六国です。

ちなみに、本当に十六の国だった訳ではなく、主な国と後世の中国人が認定した国が十六ということです。それが少しマシになって、南北朝時代(439年~589年)になります。華北流域に騎馬民族が次々と王朝をたて、漢人は南に逃げつつ次々と王朝が交代した時代です。これを統一したのが隋(581年~618年)で、北方の王朝です。

その隋に取って代わったのが唐(618年~907年)です。隋も唐も北方騎馬民族のトルコ人が、漢民族を征服して樹立した王朝です。その唐が安定したのも、最初の50年くらいです。周辺諸国との戦争や内乱に明け暮れたあげく滅んで、五代十国時代(907年~960年)に突入します。この時代も騎馬民族が暴れまわりました。ようやく宋(960年~1279年)が統一しましたが、弱体王朝でした。

満洲人やモンゴル人に朝貢して(=カツアゲされて)、生き延びるような情けない国です。そして元(1271年~1368年)に滅ぼされます。元は、モンゴル人が漢民族を征服して樹立した王朝です。さらに先取りして言うと、元が出て行ったあとに打ち立てた漢民族の明(1368年~1644年)は、常に周辺民族に脅かされていました。

西から北に時計回りにチベット、ウイグル、モンゴル、満洲と陸続きで、そして海を隔てた東の日本にも怯えていました。明に代わった清(1644年~1911年)は、満洲人が漢民族を征服して樹立した王朝です。

清が滅んだ後の中華民国(1911年~1949年)は、政府が大陸にいる間は一日も休みなく動乱状態でした。今の中華人民共和国(1949年~?年)は、内に強大な権力を打ち立て、周辺民族に威張り散らしている漢民族の政権ですが、中国の歴史では珍しい状態なのです。

要するに、中国はいつも内輪で喧嘩ばかりしていますし、周辺民族に負けっぱなしなのです。人類の曙から中華民族が文明の中心だったなど、フィクション(作り話)なのです。